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山崎の戦いで明智光秀本陣は、恵解山古墳に置かれた!?

恵解山古墳

京都府長岡京市にある国の史跡・恵解山古墳(いげのやまこふん)。実はこの古墳、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀が、「中国大返し」から戻る羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)を迎え撃った山崎の戦いで本陣を置いた場所という可能性が高まっています。

墳丘長128mの前方後円墳の上に本陣が!?

恵解山古墳一帯は公園化されています

有名な水攻めを行なった備中高松城(岡山県岡山市北区)で織田信長が明智光秀に討たれたという知らせを受けた羽柴秀吉は和議を整え、急遽、京に向けての230kmを10日間かけての大移動を行ないます。
これが有名な「中国大返し」。

『太閤記』に4万の軍勢と記される秀吉軍大坂(現・大阪)から京に入るには、どうしても山城国・山崎(京都府乙訓郡大山崎町)を越える必要があり、それを迎え撃つ光秀軍(『太閤記』によれば1万6000)にとっても山崎の隘路で迎え撃つのが得策でした。

『甫安太閤記』、『細川家記』、『新撰豊臣実録』に、「御坊塚」と記されるのが明智光秀の本陣。
信長の本拠・安土城など近江の城を落とした明智光秀は、勝龍寺城(現・長岡京市)の修築を行ない、そのすぐ南西にある恵解山古墳に本陣を築いたという説が有力視されています。

これまで境野1号墳(大山崎町)に明智光秀本陣があったとされていましたが、恵解山古墳(墳丘長128mの前方後円墳)の発掘調査で、後円部が2段または3段に改変されていたことも判明(後円部北側を平らに削ったのち、改めて土を盛り直しています)。
これが中世城郭の曲輪(くるわ)にそっくりな形状をしていること、前方部にも深い掘り込み、階段状の改変が発見、さらに墳丘上から戦国時代の土器、白磁器、火縄銃の弾6点(大半は着弾時の変形を確認)が出土したことで、恵解山古墳が戦場となった証拠となったのです。

また、以前は天王山の戦いと称されていましたが(天王山の争奪戦が勝敗を決めたというのは後世の創作)、実際の合戦の舞台は現在の大山崎町から長岡京市の勝龍寺城付近一帯に広がっていることも判明、江戸時代の絵図にも、明智光秀の本陣は恵解山古墳付近に、境野1号墳付近は明智光秀家臣・津田与三郎の陣が描かれているので、本陣は恵解山古墳、津田与三郎の陣が境野1号墳という推測も成り立つのです。

明智光秀は戦況が劣勢となると、勝龍寺城に退き、手狭な城で籠城もできなかったため、本拠の坂本城へと脱出し、逃げる途中、小栗栖の藪(京都市伏見区、現・明智藪)で農民の落ち武者狩りに遭遇、竹槍で刺されています。

こうした逃走ルートからも、明智光秀の本陣が置かれたのは恵解山古墳という説が有力ですが、まだまだ確定したわけではなく、今後の研究が待たれるところです。

山崎の戦いで明智光秀本陣は、恵解山古墳に置かれた!?
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恵解山古墳

京都府長岡京市にある前方後円墳が、恵解山古墳(いげのやまこふん)。13基の古墳が国の史跡となっている乙訓古墳群(おとくにこふんぐん)のひとつで、恵解山古墳は、墳丘長128m(後円部径78.6m、前方部長49.4m)で、乙訓地域最大(京都盆地

明智藪

天正10年(1582年)6月2日、主君・織田信長を本能寺で討った明智光秀ですが、備中高松城(現・岡山県岡山市)から戻った羽柴秀吉軍と6月13日、山崎の戦いで激戦を展開。これに敗れて坂本城へと落ち延びる途中、小栗栖の藪で落ち武者狩りにあって、

天王山

京都府乙訓郡大山崎町にそびえる標高270mの山、天王山。西山腹が摂津国(大阪府)と山城国(京都府)の国境に位置し、山城盆地の西にそびえる西山の南端。山頂近くに位置する酒解神社(さかとけじんじゃ)が牛頭天王を祀ることがその名の由来です。戦国時

勝竜寺城(細川ガラシャ輿入れの城)

京都府長岡京市勝竜寺にある中世から近世初期の城郭が、勝竜寺城(しょうりゅうじじょう)。細川忠興・ガラシャ夫妻はこの城で祝言をあげ、ゆかりの城となっています。天正10年(1582年)の本能寺の変直後は、明智光秀が羽柴秀吉を迎え撃つ拠点ともなり

 

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