織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という三英傑(戦国三英傑)がいずれも手中に収めた城というのは、天守(国宝)が現存する犬山城くらいかもしれません。濃尾平野の北部、木曽川南岸、美濃国に臨んだ尾張国の北端に位置する犬山城。三英傑はなぜ犬山城を重要視したのでしょうか。
織田信長と犬山城
濃尾平野を手中に収め、天下布武への足がかりとして奪取

犬山城は、天文6年(1537年)、織田信長の叔父・織田信康が岩倉織田氏の砦を大改修して築城し、岩倉織田氏の後見人に収まります。
当時、尾張国(愛知県西部)は、南北に分かれ、岩倉城を居城とする岩倉織田家は春日井郡、丹羽郡、葉栗郡、中島郡の上四郡を統治、尾張下四郡を収める清洲織田氏とは対立関係にありました。
織田信長の父、織田信秀(おだのぶひで=勝幡城主)は、今川氏の居城だった那古野城(現・名古屋城)を奪い、そこを本拠として勢力を拡大します。
織田信長は、犬山城主となった従兄弟(いとこ)の織田信清(織田信康の子)と対立しますが、永禄7年(1564年)、織田信清を破って犬山城を手中に収めます。
信長は永禄5年(1562年)、家康との間に軍事同盟(清洲同盟)を結び、永禄6年(1563年)に家臣の反対を押し切って本拠を清州城から小牧山城へと移しているので、犬山城を手中に収めたのは、稲葉山城(岐阜城)を奪取し、濃尾平野全体を掌握する重要なプロセスだったことがわかります。
豊臣秀吉と犬山城
小牧・長久手の戦いで本陣を置き、豊臣政権下ではファミリーを配置

天正10年(1582年)の本能寺の変で、犬山城は尾張国を領有した織田信雄(おだのぶかつ=織田信長の次男)の城となり、配下の中川定成(なかがわさだなり)が城を守ります。
羽柴秀吉と徳川家康の権力闘争(小牧・長久手の戦い)の際には、織田信雄方と目されていた大垣城主(美濃国)・池田恒興(いけだつねおき)が、中川定成の出陣中に奇襲をかけ、犬山城を奪取。
羽柴秀吉は犬山城を本陣として、小牧山城に陣取る徳川家康と対峙しています。
戦後の天正15年(1587年)、織田信雄に返還されますが、天正18年(1590年)、織田信雄を改易して甥(おい)の豊臣秀次(とよとみひでつぐ=近江八幡が居城、豊臣政権の重臣)の領有にしています。
犬山城主は三好吉房(みよしよしふさ=秀吉にとっては姉の夫)が城代を務めているので、その重要性がよくわかります。
信頼できるファミリーを犬山城、清州城に配したのは、秀吉の戦略的な配慮だったのでしょう。
徳川家康と犬山城
関ヶ原の戦いで家康が奪取し、以降は尾張徳川家の重要拠点に

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いでは、犬山城主・石川貞清(いしかわさだきよ=豊臣氏の譜代の家臣)は、家康からの降誘を拒否して犬山城での籠城戦を選択(稲葉貞通・典通父子らとともに籠城)。
東軍に奪われていますが、戦後に助命されていることから、もともとは東軍に寝返る約定がありながら、脱出の機会を失ったことが当時の書状からも推測できます(京で隠棲し、子孫は商人に)。
江戸時代には家康に信頼される平岩親吉(ひらいわちかよし=家康が竹千代と名乗った今川義元の人質時代からの従者で、家康と同い年)が尾張藩の重臣として入城。
その点からも、家康が犬山城を西への睨み、尾張徳川家の最前線として重要視していたことがわかります。
元和3年(1617年)、尾張藩の家老、成瀬正成(なるせまさなり)が城主となり、明治維新まで成瀬家が城主を務めています。
ただし正式に犬山藩が認められていたわけではなく、一国一城令の後も城が認められた特異な例で、しかも城郭と城下町の整備が許されたことから、徳川家にとっても重要な城だったことがよくわかります。
木曽川で木曽の木材(木曽は尾張藩領)が運ばれるなど、交通の要衝だったことも大きな要因です。
| 三英傑(信長・秀吉・家康)が手にした犬山城、なぜ犬山城は重要!? | |
| 名称 | 犬山城天守/いぬやまじょうてんしゅ |
| 所在地 | 愛知県犬山市犬山北古券65-2 |
| 関連HP | 国宝犬山城公式ホームページ |
| 電車・バスで | 名鉄犬山線犬山駅から徒歩20分、 名鉄犬山線犬山遊園駅から徒歩12分 |
| ドライブで | 東名高速道路小牧ICから約10km、名古屋高速小牧北IC、中央自動車道小牧北IC、東海北陸自動車道岐阜各務原ICも利用可能 |
| 駐車場 | 犬山城第1駐車場(140台/有料)、犬山城第2駐車場(123台/有料) |
| 問い合わせ | 犬山城管理事務所 TEL:0568-61-1711 |
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