発表から100年、『伊豆の踊子』はなぜ人気なのでしょう!?

伊豆の踊子

田中絹代・大日方傳主演(昭和8年)美空ひばり・石濱朗主演(昭和29年)、吉永小百合・高橋英樹主演(昭和38年)、山口百恵・三浦友和主演(昭和49年)と何度も映画化されている川端康成の小説『伊豆の踊子』。加えて伊豆へのJR特急も「踊り子」号。『伊豆の踊子』はなぜ人気なのでしょう!?

『伊豆の踊子』は令和8年で発表から100年

川端康成の自伝的なラブストーリーで伊豆・下田街道が舞台

大正15年、雑誌『文藝時代』1月号に掲載された短編小説が『伊豆の踊子』。
戦前にドイツで翻訳された他、戦後は世界各国で翻訳版が出版される、川端康成の代表作のひとつです。

実は、川端康成の自伝的な小説で、一高入学の翌年、大正7年10月30日〜11月7日、初の一人旅で伊豆を旅しています。
川端康成は、湯ヶ島温泉から下田港を目指す下田街道・天城越えで、時田かほる(踊子の兄の本名)率いる旅芸人一行と道連れに。
幼い踊子・加藤たみとの出会いが、小説のモチーフになっています。
川端康成は19歳、加藤たみは13歳という若さでした。

伊豆で出会った旅芸人たちは、当時賑わいを見せていた伊豆大島の波浮港(はぶみなと)が本拠地で、波浮の「港屋旅館」(「踊子の里資料館」として現存)などでも踊りを披露していました。
つまり、旅芸人一行は、故郷である伊豆大島に戻るため、旧天城トンネルを抜け、下田港へと向かっていたのです。

偶然、この旅芸人一座と出会い、加藤たみに心をときめかせた川端康成は、下田港から東京へ向けての「賀茂丸」に乗る予定だったので、ともに下田港が目的地でした。

帰路、「賀茂丸」で川端康成に出会った受験生・後藤孟は、「機関室の前の狭い部屋で、いろんな話をしました。旅芸人の話が印象的でした」(『実録 川端康成』)と語っているので、踊り子のエピソードは、一人旅の一高生にとっては、強烈な思い出となったことがよくわかります。

旧天城トンネル
明治38年完成の旧天城トンネル、川端康成と踊り子もここを抜けて下田へ

今も色褪せることのない『伊豆の踊子』

伊豆の踊子
昭和29年3月31日公開の映画『伊豆の踊子』

作品が、初めて映画化されたのは、昭和8年2月2日公開の『恋の花咲く 伊豆の踊子』(TOPの画像)。
純文学作品を映画化することが避けられていた時代に、五所平之助監督は、あえてそれに挑戦。
オリジナルのストーリーとは少し異なるものの、『伊豆の踊子』は一躍有名になったのです。

川端康成はは『伊豆の踊子』について、「『伊豆の踊子』はすべて書いた通りであつた。事実そのままで虚構はない。あるとすれば省略だけである」、「私の旅の小説の幼い出発点である」と延べています。

映画化にあたり、ヒロインである踊子は、田中絹代、美空ひばり、吉永小百合、山口百恵とその世代を代表するスターが演じており、『伊豆の踊子』の人気がよくわかります。
観光的にもJRの特急「踊り子」のほか、旧天城トンネルを抜ける下田街道は「踊子歩道」と名付けられています。

特急「踊り子」は、昭和56年10月1日、当時の国鉄が公募で命名。
旧天城峠トンネルなどに立ち寄る東海バスのボンネットバスも、「伊豆の踊子号」と、伊豆といえば踊子というのは、現代にも続いています。

ちなみに『伊豆の踊子』は令和8年で発表から100年となり、その人気は色褪せることがありません。

185系特急「踊り子」
185系特急「踊り子」には踊り子のヘッドマークも
発表から100年、『伊豆の踊子』はなぜ人気なのでしょう!?
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踊子の里資料館

踊子の里資料館

東京都大島町波浮港、川端康成の小説『伊豆の踊子』に登場する踊子たちが住んでいたのが、大島の南端・波浮港(はぶみなと)。『伊豆の踊子』は、その波浮港の港屋旅館の酒宴で芸を披露していた大島の旅芸人一座がモデルで、港屋旅館が廃業後、資料館として再

旧天城トンネル

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旧天城トンネルの正式名は天城山隧道。国道の新天城トンネルと区別するため「旧天城トンネル」と呼ばれています。平成13年にトンネルとしては初めて国の重要文化財に指定された伊豆・天城山中にある隧道(トンネル)です。当時のお金で10万3000円を投

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