日本初のカーフェリーは、若戸渡船

若戸渡船

日本初のカーフェリーは、昭和9年3月に就航した洞海湾を渡って若松市と戸畑市(現在の北九州市若松区と戸畑区)を結ぶ若戸渡船の「第八わかと丸」、「第九わかと丸」です。洞海湾にはトンネル建設構想が浮上するほど、貨物輸送の需要が高く、そこで就航したのが日本初のカーフェリーでした。

東京湾フェリーなど、その後のフェリーのモデルに

若戸渡船
現在の若戸渡船(若戸航路)は、旅客のほか、自転車のみ積載可能

昭和13年、内務省は、洞海湾トンネル計画を認可していますが、日中戦争に突入し計画は中断、昭和18年に再度計画が実行へと移りますが太平洋戦争で断念しています。

昭和初期、官営八幡製鐵所(昭和9年から日本製鐵)などの鉄鋼業を中心とした工業都市として発展した洞海湾周辺の北九州地区。
若松市と戸畑市の貨物輸送は、遠賀郡折尾町(現・八幡西区折尾)を迂回するため、遠回りでロスが大きいため、海底トンネルを掘削するという計画があったのです。

とくに貨物輸送に困窮していたのが若松市で、昭和4年10月「貨物事業の施設及び経営に関する件」を市議会で可決し、昭和5年に経費についても議会を通過し、戸畑市と協議を重ねて若戸渡船に貨物船(カーフェリー)建造へと舵を切ります(昭和5年4月2日には老朽化した若戸渡船の「第一わかと丸」が転覆し、73名が犠牲に)。

海底トンネルが完成するまでの貨物輸送の手段として登場したのが、「第八わかと丸」、「第九わかと丸」で、総トン数は43.34トン。
昭和7年に最新式ディーゼル機関、そして前後部両方に推進器と舵を備えた貨物船(カーフェリー)を建造、少し遅れて昭和9年3月に貨物船専用桟橋を完成させ、3月28日から運航を開始したもの。
カーフェリーとはいえ、2階に操舵室を置き、1階のデッキに小型の乗用車、貨物自動車と乗客が混乗るするというスタイルで、現在の尾道水道の渡船に近い感じでした。
利便性は格段に向上しましたが、大型化するトラック輸送などには対応できず、戦後になると架橋計画がもちあがり、若戸大橋の完成で、昭和37年9月、この「カーフェリー」はお役御免となっています。
以降、若戸渡船(若戸航路)は旅客のほかは、自転車の積載だけ可能となっています(原動機付自転車は若戸大橋を走行可能)。

それでも30年にわたって活躍した「第八わかと丸」、「第九わかと丸」ということになりますが、一般的にはあまり知られていません。
当時は「若戸名物」として、全国から視察、見学のために訪れる人がいたとのこと。

1階に車を積載、船の両端に推進器と舵を備え、前後から車が乗り降りできるという形状はその後のフェリーにも大きな影響を与え、昭和35年5月3日に運航が始まった東京湾フェリーも、この若戸渡船のカーフェリーを参考にしているのです。

若戸渡船
若戸大橋完成後も旅客輸送を担う若戸渡船(若戸航路)
日本初のカーフェリーは、若戸渡船
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若戸渡船

若戸渡船

北九州市の若松区(若松渡場=若松区本町1丁目/JR若松駅から徒歩20分)と戸畑区(戸畑渡場=戸畑区北鳥旗町/JR戸畑駅北口から徒歩10分)を3分で結ぶ北九州市営の渡船が若戸渡船(北九州市営若戸航路)。「第十八わかと丸」(38t)、「くき丸」

若松渡場(若戸渡船)

若松渡場(若戸渡船)

福岡県北九州市が運営する北九州市営渡船の航路で洞海湾で隔たれる若松区と戸畑区を結ぶ若戸渡船(若戸航路)の若松区側の乗り場が若松渡場。市営渡船ながら、関門汽船に委託されて運航されているもので、渡場の待合室内に券売機が設置されており、乗船券を購

戸畑渡場(若戸渡船)

戸畑渡場(若戸渡船)

北九州市洞海湾に架かる若戸大橋の下を通って、若松区と戸畑区を結ぶのが若戸渡船(北九州市営若戸航路)。その戸畑区側の乗船場が戸畑渡場です。JR戸畑駅北口から徒歩10分という便利なアプローチになっています。戸畑渡場は、若戸大橋の戸畑側(南側)の

若戸大橋

若戸大橋

北九州市の幅数百m、長さ10kmの細長い入江状の洞海湾(現在は北九州港に)に架かる長大橋が国道199号の若戸大橋。昭和37年9月27日に供用開始し、当時は「東洋一の夢の吊り橋」で、観光客も訪れる高度成長のシンボル的な存在にもなっていました。

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