平安時代末の寿永2年5月11日(1183年6月2日)、越中国(富山県)と加賀国(石川県)の国境で、源氏(源義仲軍)と平家(平維盛軍)が激突した戦いが倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い。『源平盛衰記』に記される源義仲軍の奇策が、「火牛の計」(かぎゅうのけい)。さてさて火牛とは何なのでしょう。
古代中国で、斉の将軍、田単が使った奇策「火牛の計」
『源平盛衰記』(14世紀頃完成)に記される「火牛の計」は、源義仲(木曽義仲)が400頭~500頭の牛の角に松明(たいまつ)を付け平家軍へと突進させ谷底へ突き落としたとされるもの。
樋口兼光(ひぐちかねみつ=義仲四天王のひとりで、義仲軍の中心人物)の部隊が周辺の農家から多くの牛を集め、牛の角に、藁(わら)を束ねた松明を結び付けたと記されています。
源義仲軍は、昼間はほとんど動きを見せず、平家軍を油断させたうえで、夜半に突如として大きな音を立てながら攻撃を仕掛け、相手を混乱に陥れたのです。
夜中で混乱もあり、平家軍は倶利伽羅峠の断崖へと追い詰められ、谷底へと落ちていったと伝えられているのです。
『源平盛衰記』に記載の「火牛の計」ですが、『平家物語』には一切触れられていないことから創作でないかという疑いも(史実性からいうと『平家物語』が勝るため)。
実はこの奇襲攻撃、紀元前3世紀、中国戦国時代の斉の将軍、田単(でんたん)が、燕によって滅亡寸前に追い詰められた際に使った奇襲攻撃とされ、『史記』のなかの「田単列伝第二十二」(爲絳繒衣、畫以五彩龍文、束兵刃於其角、而灌脂束葦於尾、燒其端、鑿城數十穴、夜縱牛。壯士五千人隨其後。牛尾熱、怒而奔燕軍。)に記載されていることから、それを使っての創作とする可能性が大なのです。
「田単列伝第二十二」には、田単は、それに先立って1000頭ほどの牛を手に入れるという記述があり(田單乃收城中得千餘牛)、かなり信憑性があります。
源義仲が予め倶利伽羅峠の山上に400頭~500頭の用意できたたのかというのが、まずは大きなネックとなります。
倶利伽羅峠の富山県小矢部市側には「火牛の像」が立っていますが、あくまでも『源平盛衰記』に基づくもの。
2024年までは小矢部市側で、7月最終土曜日に『メルヘンおやべ源平火牛まつり』も行なわれていましたが、人手不足などから廃止となっています。
ちなみに、北条早雲も小田原攻めの際、「牛1000頭の角に松明を灯して城攻略」という「火牛の計」を使ったことが伝承されていますが、こちらも後世の軍記物が描いた英雄伝説(つまりは創作)と推測できます。
倶利伽羅峠の源平合戦で使われた「火牛」とは!? | |
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