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新波止砲台跡

新波止砲台跡

「にっぽん丸」などの大型客船も着岸する鹿児島港の北埠頭。岸壁にはボードウォークも整備されていますが、「いおワールドかごしま水族館」北側の岸壁にあるのが幕末に薩摩藩が、藩の富国強兵のために築いた新波止砲台跡。鹿児島城下の防衛のために設置された主力砲台で、薩英戦争にも使われています。

薩英戦争の舞台ともなった薩摩藩の砲台

新波止砲台跡の傍らを桜島への向かうフェリーが出航

新波止砲台は、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設などを推進した薩摩藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)が、モリソン号事件(日本漂流民7名を連れ、対日通商と布教を目指して浦賀に来航したアメリカ船「モリソン号」を砲撃した事件)を受けて、安政元年(1854年)に築いたもので、国の重要文化財。
薩摩藩では、嘉永6年(1853年)、大門口台場、祇園之洲台場を、翌年には新波戸台場、辨天波戸台場を築造しています。
新波戸台場は、石積みの防波堤を改築し、凝灰岩の切石によって強固な砲台を建設していますが、鹿児島城(鶴丸城)の正面に位置することから、主力砲台として海防上重要な砲台だったのです。

生麦事件(なまむぎじけん=横浜居留地の英国人が馬でピクニックに出かける際、薩摩藩の参勤交代の行列に出会い、無礼討ちにあった事件)がきっかけで勃発した文久3年7月2日〜7月4日(1863年8月15日〜8月17日)の薩英戦争時には、国内最大級の150ポンド爆砲(ボンカノン砲)1門、80ポンド爆砲1門をはじめとする11門の大砲を配備、イギリス艦隊と交戦しています。
新波戸砲台がイギリス艦隊に盛んに砲撃を加え、L・ムーア海尉率いるコルベット艦「アーガス」(Argus)に3発の命中弾を浴びせています。
新波止砲台(または辨天波戸砲台)から発射された砲弾が、旗艦「ユーリアス号」(HMS Euryalus/3125トン)にも命中し、艦長のJ・ジョスリング一等海佐らが戦死しています。
世界最強を謳われたイギリス海軍は横浜に退却し、アメリカなどから驚きの声があがったのです。
イギリス国内では、議会の開会挨拶の中で、鹿児島市民に多大な被害を与えたことに対し遺憾の意を表明するなど、イギリス艦隊の行動を批難する論調が支配的でした。

明治5年に波浪による浸食を防ぐために新波止砲台の南、90mのところに一丁場台場が築かれましたが、明治37年の遮断防波堤の築造工事でひとつにつながっています。

新波止砲台跡
名称 新波止砲台跡/しんはとほうだいあと
所在地 鹿児島県鹿児島市本港新町
関連HP 鹿児島市観光サイト
電車・バスで JR鹿児島中央駅からシティビューで15分、かごしま水族館前下車、徒歩5分
ドライブで 九州自動車道鹿児島北ICから約6km
駐車場 県営第1駐車場(167台/1時間まで無料、以降有料)
問い合わせ 鹿児島市観光交流局観光プロモーション課 TEL:099-216-1344
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

北埠頭ボードウォーク(しおかぜ通り)

鹿児島市のお洒落なウォーターゾーンとして地元で人気のスポットが北埠頭(きたふとう)。埠頭の西側(西岸壁)に設けられているボードウォーク「しおかぜ通り」には随所にベンチが設けられ、桜島フェリーや薩南諸島と結ぶ船が行き交う港の風景を眺めながら、

鹿児島港旧石積防波堤

鹿児島県鹿児島市の鹿児島港北埠頭の岸壁にあるのが鹿児島港旧石積防波堤。もともとは江戸時代末期の弘化・嘉永年間(1844年〜1853年)に築造された新波止に、島津斉彬(しまずなりあきら)が沖合に石積み防波堤を築き、大砲を備えて新波止砲台(新台

台場公園(薩英戦争砲台跡)

鹿児島県肝属郡南大隅町、文久2年(1862年)、生麦事件後、それまであった大門口台場、祇園之洲砲台、新波戸砲台、辨天波戸砲台に加え、新たに台場を構築。そんな薩英戦争に備えて砲台を備えた根占砲台の跡が、台場公園(薩英戦争砲台跡)。南大隅町内に

瀬脇砲台跡

鹿児島県肝属郡南大隅町にある幕末の砲台跡が、瀬脇砲台跡。嘉永4年(1851年)、薩摩藩は攘夷(じょうい=外敵を撃ち払って入国させない)の目的で瀬脇砲台、と辺田原に根占砲台(現・台場公園)を築き、大砲1門を構えています。瀬脇砲台跡が史跡として

祇園之洲台場跡

鹿児島県鹿児島市清水町にある幕末に築かれた台場の跡が、祇園之洲台場跡。生麦事件に続く、薩英戦争で、鹿児島城を守備する祇園之洲台場は主戦場となっています。平成22年の発掘調査で、薩英戦争当時の石垣、砲座、土塁などが広く残存していることが確認さ

 

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