木村さんは大姓18位、56万50000人程度と推測され、国民の0.46%という数字です。「樹木が生い茂る村」を意味するので、集落周辺に森や林がある土地は身近にあり、有名人も多いことからもっと上位のイメージもあります。ただし、紀氏が住んだ村が紀村という例もあり、ルーツもそう単純ではありません。
木村さんのルーツは滋賀県で、紀氏につながる
木村さんと聞いて真っ先に思い浮かべる有名人といえば、元SMAPの木村拓哉でしょうが、東京出身。
女優の木村佳乃(きむらよしの)も東京。
銀座「木村屋總本店」の創始者・木村安兵衛(きむらやすべえ)は婿養子で、奥方の出身は常陸国川原代村(茨城県龍ケ崎市)。
すしざんまい創業社長・木村清(きむらきよし)は千葉県野田市の出身。
ラーメンチェーン「天下一品」の創業社長・木村勉(きむらつとむ)は京都府の出で、36歳で京都市内で屋台でラーメン販売を始めたのが始まりです。
歌手でファッションモデルの木村カエラは、東京都足立区綾瀬の出身。
これでは、ルーツをたどるヒントにはなりません。
相撲ファンなら、木村と聞けば、庄之助と答えるでしょう。
行司・木村庄之助(現在は37代目)のルーツ、つまりは木村家の創設は寛永年間(1624年~1644年)の松代藩主・真田信之(さなだのぶゆき)の家臣・中立清重だといわれているのですが、一般的な木村さんのルーツははるか昔まで遡るころができます。
木村さんの血筋は、出雲神話から始まる「神氏」(じんし)一族という説、木の国・紀伊の古代大姓「紀」氏に因んだ木村氏もあるので、「樹木に取り囲まれた村」という単純な話ではありません。
紀氏が住んだ村が紀村、転じて木村、古墳がある木村は紀氏由来とも推測できるのです。
木村さんのルーツとしてまずチェックすべきは、近江国蒲生郡木村(滋賀県東近江市木村町)発祥の木村氏でしょう。
『源平盛衰記』に記される湊川で平通盛(たいらのみちもり)を討ち取る木村成綱は(『平家物語』による)、紀朝臣(きのあそん)成高の後裔。
また、同じ紀氏の流れを汲む近江源氏・佐々木氏流の木村一族はつとに有名で、佐々木氏のルーツ・佐々木成頼(ささきなりより=源成頼)から6世の佐々木成俊が、近江国伊香郡木村(現・長浜市)に因んで木村と称したのが始まり。
大坂夏の陣で、豊臣秀頼を守り、真田幸村らと徳川の大軍に対し力戦奮闘した木村重成(きむらしげなり)や加藤清正の筆頭家老である木村正勝はこの一族の出といわれています。
名神高速道路の蒲生スマートIC一帯が、東近江市木村町ですが、木村古墳群、木村公民館近くには木村城跡も存在しています。
木村古墳群は、滋賀県下では最大規模の古墳時代中期(5世紀頃)の古墳群で、木村さんのルーツ探しの旅では、欠かせない訪問先です。
木村屋總本店のルーツも近江に!
近江にはもうひとつ、重要な木村さんのルーツが。
近江八幡市安土町常楽寺の木村城(常楽寺城)で、佐々木六角氏の家臣・木村氏の居城。
木村氏は六角氏の被官でしたが、永禄11年(1568年)、織田信長の近江侵攻後(観音寺城落城後=上洛を目指す信長の天下布武が実践された最初の戦い)は信長に従っています。
中世から近世にかけて栄えた「常楽寺湊」と呼ばれた湊(琵琶湖の舟運を利用)がここにはあったのですが、常楽寺湊の舟入跡近くに「木村」と呼ばれる小字が残った畑が現存。
ここが木村城(館)跡との推定地で、木村一族は佐々木さんのルーツでもある沙沙貴神社(ささきじんじゃ)の神官を務めていたことがわかっているのです。
織田信長に仕え、安土城築城に携わった木村次郎左衛門もこの木村氏の一族(「安土御構、木村次郎左衛門に渡置き、夫々に御上﨟衆へ警固を申付け、退申され候。」『信長公記』)。
木村城跡のあった「常楽寺湊」一帯は、水辺を公園化した常浜水辺公園となっていますが、常浜水辺公園の西端に位置する畑が木村城跡。
実は、銀座の木村屋總本店の創始者・木村安兵衛の母方の木村家のルーツは、ここにたどり着くのです。
全国に散らばる木村さんのパワースポット
下野国都賀(つが)郡木村(現在の栃木県栃木市都賀町木)を発祥とする木村さんは、藤原北家・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の末裔で、足利有綱の五男・足利信綱が木村姓を称したといい、ここから五戸館(ごのへだて=青森県三戸郡五戸町字館)を居館にした木村氏も生じています。
さらに、徳島県麻植(おえ)郡鴨島町山路に、平康頼(たいらのやすより)の流れを汲む木村さんも誕生。
このほか、紀伊の名族・鈴木氏流、古代名族・日下部(くさかべ)氏流、服部氏流、千葉氏流などがあり、それらの支流もきわめて数多くなっています。
広島県竹原市新庄町の安芸木村城も、木村さんならぜひ訪ねてみたい城にひとつ。
正嘉2年(1258年)、小早川政景(こばやかわまさかげ=竹原小早川氏の初代)が築いた城で、天文20年(1551年)、小早川隆景が沼田小早川家を相続して高山城に移るまで、中世は小早川氏の居城でした。
木村城は、国道432号沿いにある和賀神社(小早川神社)の裏山に築かれていて、本丸、二の丸、三の丸にあたる曲輪のほか何段かの曲輪があり、見事な石組井戸が残されています。
木村城という名があるものの、城主は小早川氏で、木村さんではありません。
福島県郡山市にも木村さんのルーツが!
福島県郡山市にも木村さんのルーツがあります。
磐越自動車道の郡山東IC近く、磐越自動車道がすぐ北側に走る小高い古館山に、かつて築かれたのが木村館(きむらたて/福島県郡山市西田町木村)。
戦国時代の山城の跡で、木村の領主・木村越中守の居城。
天正11年(1583年)、二本松氏(畠山氏)に寝返ろうとし、主である田村清顕(たむらきよあき=一人娘・愛姫は伊達政宗の正室)によって攻められ、木村氏は滅亡しています。
娘の鶴姫が阿武隈川に入水するなど、悲しい歴史を後世に残していますが、はたして末裔は・・・。
山頂部の本丸には木村神社があり、本丸北側の物見櫓風展望台がなかなかユニークです。
発掘調査で、8本の柱に支えられた櫓門などから成る桝形門があったことが判明、中世の山城はなかなか堅牢なものだったことがわかります。
この木村神社は、木村さんのパワースポットといえるでしょう。
紀州には村人の恩人、木村八郎太夫が!
神社関連でいえば、和歌山県海南市下津町大窪の木村神社は、領主・木村越中守の居城であったといい、祭神は、宝暦3年(1753年)に村人の困窮を救った紀州浅野家の代官・木村八郎太夫。
木村八郎太夫は、村の衰廃を憂い、藩に減税を訴え、年貢を減免し、農間にみかん篭作りを奨励し、年貢の代わりとするなど地域に貢献、そのため木村神社は、その徳をたたえて、村の守り神に。
木村先生社とも称されているのです。
全国に平均的に散っているのが木村さんの特徴
香川県三豊(みとよ)市の木村神社は、現在も「木村さん」と呼ばれて親しまれています。
木村神社は、船越八幡神社の境内地に鎮座し、祭神は木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)。
全国に木村神社があるのですが、大姓のベスト5に入っているのは、青森4位(1.62%)のみ。
ベスト10入りは茨城県6位、滋賀県8位、京都府8位で、この結果からも、飛び抜けて多いエリアはなく、西と東の偏りも見られず、全国に平均的に散っているのが木村さんの特徴といえるかもしれません。
木村さんの家紋は、近江源氏佐々木氏流は隅立て一つ目や隅立て四つ目などの目結、藤原北家秀郷流は左三つ巴や五三桐、他に違い矢、松皮菱、木文字など。
取材・編集協力/札場靖人(家紋と姓名研究家)人口に関するデータは明治安田生命全国同姓調査による(2018年7月)推計値です
木村さんのルーツを探せ! | |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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