野付半島は、全長28kmの日本一長大な砂嘴(さし)です。細いところでは幅は数十メートルしかありません。半島中央部から先に人家はありません。あるのは鮭の定置網の番屋だけです。北方領土のひとつ、国後島に最も近いのもこの野付半島です。この野付半島の先端部に江戸時代、遊郭もある「町」があったことは、まったく知られていません。
野付半島先端部に江戸時代の遺跡群が!
根室海峡に突き出した長大な砂嘴は、実は知床半島の土砂が海流に削られ、堆積したもの。実際、根室海峡は羅臼沖では2000mもの深さがありますが、標津沖では数百メートルしかありません。ですから夏に根室海峡に出没するマッコウクジラも、羅臼沖でUターン。
土砂が削られて流れ着くわけですから、実は、知床が世界遺産に登録される最大の理由である「流氷のアイスアルジー」(流氷底面の植物性プランクトン)も漂着。もちろん、その植物プランクトンを狙う動物性プランクトンも野付半島沖や野付湾には多いことがわかっています。
野付湾のホタテは他産地より、グリコーゲンが多く、甘みが強いことが科学的に解明されていますが、これも「知床から流れ着くプランクトン」によるもの。
つまり、野付半島は、「国後島にもっとも近く、豊かな漁業資源に恵まれている地」。
とくれば、北方交易に長けた江戸時代の廻船問屋や、漁業者などがこの地を見逃すはずもありません。
野付半島先端部の外海側、アラハマワンドと呼ばれる場所には江戸時代に番屋が建ち並んでいたことがわかっていて(荒浜岬遺跡)、今も土塁や溝、敷石などが残されています。
また尖端から二番目の岬の基部には「野付通行屋」の跡があります。
寛政11年(1799年)に、幕府が国後(くなしり)に渡る中継点、さらには根室・厚岸・目梨(羅臼)方面の交通の拠点として設けたのもです。
地元の伝承によれば、半島先端部には遊郭もあったという幻の町、キラクがあったとされ、それを証明するかのように今も墓地などが残されています。
司馬遼太郎の『菜の花の沖』は、江戸時代、北方交易で活躍した豪商・高田屋嘉兵衛の物語ですが、実はこの嘉兵衛がロシア船に捕捉されたのも、この野付半島沖(野付水道)です。
逆に、事件の発端となったゴローニンの拿捕は国後島で行なわれ、野付半島を経て松前に送られました。これがゴローニン事件です。
キラクの町の正式名は、「野付通行屋・番屋跡遺跡」
江戸時代の後半には、豊かな漁業基地、日本とロシアの交易と国境問題で、野付半島は歴史の中心でもあったのです。
昭和38年、野付半島先端部を「探検」した北海道大探検部の記録には、「地元の人々にキラク町と呼ばれている場所がある。キラクの由来は気が楽になるところという意味で、かつてここにこの付近の人々のための歓楽の場があったことに由来するらしく・・・」と記されていますが、キラクという名の由来はちょっと違うように思います。
キラクはロシア南部にいるウィルタ民族(オロッコ)の言葉で「神」を意味しています。
和人が喜楽、気楽、嬉楽という漢字を当てはめたというが事実でしょう。江戸時代、国後島への渡航の基地でもある半島の先端部に漁業基地、そして北方交易の中継地として50戸ほどの家があったということは歴史的な事実。
残念ながら松浦武四郎の地図や古文書にも「キラク」という文字は記されていません。
別海町では先端部の遺跡を「野付通行屋・番屋跡遺跡」と呼んでいます。
寛政11年(1799年)に設置された野付通行屋には、支配人とその妻、アイヌの人足が詰めていたようです。
幕末の安政年間頃(1854年~1859年)にこの通行屋の支配人をし、アイヌ語通辞(つうじ・通訳者)として活躍、「加賀家文書」を書き残したのが加賀伝蔵で、松浦武四郎による記述など多くの文献史料に登場します。
野付半島の先端に暮らし、畑をつくり作物を栽培したとの記録が残されていますが、現在でも野付通行屋跡遺跡には、畑の畝跡が広い範囲で確認することができるのです。
陶磁器や古銭など平成15年〜17年の調査で1万2000点もの陶磁器や古銭などが発掘されていますが、まだ半分が未発掘になっています。
ちなみに、加賀伝蔵や「野付通行屋・番屋跡遺跡」に関する資料は、別海市街にある「別海町郷土資料館」に展示されています。
別海町郷土資料館を取材すると、
「野付通行屋には通行屋、下宿所、蔵などが建てられました。さらに野付崎の外海は、春の鰊(にしん)漁の時期になると根室地方の各番屋から人々が集まり、居小屋、蔵などが 50~60軒建ち並び出張番屋群が形成されました」
と、ここまでは歴史的な事実。
野付通行屋跡遺跡には江戸時代の残る墓石も残されていますし、野付番屋跡遺跡は、もはや海の下に没していますが、海が引いたときには食器や鉄鍋などの生活用品が散乱しているのを見学することができます。
地元の古老などが語る「遊郭もあったキラク」は!?
「キラクという文字は残念ながら文献史料には見当たりません。野付通行屋や番屋群、それらに関る人々の営みがあったことなどがこの伝説を作り上げたように思われます」
と、これが別海町郷土資料館の公式見解なのだそうです。
対岸の国後島・泊にも役人たちが詰めた拠点があり、ここにも遺跡があると推測されていますが、「幻の町、キラク」は、まだまだ当面は幻であり続けそうです。
余談ですが、キラクという町の存在を世に出そうという人は芸能界にもいて、新沼謙治さんは、平成27年2月に『まぼろしのキラク』(作詞・幸斉たけし/作曲・新沼謙治/日本コロムビア)という曲を発表しています。
龍神崎から先端部は車道はありますが、車による一般の立ち入りが禁じられています(地元の人の同行のもと、許可を得て取材を行っています)。
「徒歩での立ち入りは禁止されていませんが、場所がわかりにくいため、専門ガイドの引率なしの訪問は困難です」(別海町観光協会)。
とのことで、どうしても到達したい場合には、別海町観光協会や別海町郷土資料館に相談を。
別海町郷土資料館・加賀家文書館 | |
名称 | 別海町郷土資料館・加賀家文書館/べっかいちょうきょうどしりょうかん・かがけぶんしょかん |
所在地 | 北海道野付郡別海宮舞町30 |
ドライブで | 根室中標津空港から約25km |
駐車場 | あり/無料 |
問い合わせ | 別海町郷土資料館 TEL:0153-75-0802 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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