【知られざるニッポン】vol.15 『石狩挽歌』の歌詞にある「笠戸丸」とは!?

「あれからニシンは どこへ行ったやら」北原ミレイが歌って昭和50年にヒットした『石狩挽歌』(作詞・なかにし礼、作曲・浜圭介)。その1番の歌詞に「沖を通るは 笠戸丸」の歌詞があります。2番の歌詞に「燃えろ篝火 朝里の浜に」とか、「オタモイ岬の ニシン御殿も」とあるので、これは小樽の歌と判明します。では「笠戸丸」とは!?

『石狩挽歌』のキーワードは「笠戸丸」

小樽市の祝津岬に建つにしん御殿小樽貴賓館(旧青山別邸)の庭に立つ石狩挽歌の歌碑
小樽市の祝津岬に建つにしん御殿小樽貴賓館(旧青山別邸)の庭に立つ石狩挽歌の歌碑

まずは、『石狩挽歌』ですが、祝津岬にあるかつての鰊御殿を再生した「にしん御殿小樽貴賓館」(国の登録有形文化財・旧青山別邸)に記念石碑となかにし礼直筆の歌碑が立っています。
北原ミレイの歌唱が広く知られていますが、八代亜紀、森昌子、石川さゆり、坂本冬美、細川たかし、氷川きよし、門倉有希、水森かおり、最近では泉ピン子がカバーして名曲は歌い継がれています。

乱獲、森林の伐採による海水温の上昇、原因は諸説ありますが、昭和30年頃から漁獲高が激減し、昭和32年には日本海側の春ニシン漁は終了。その後、日本海側の漁師は「ニシンの群来(くき)を夢見る時代」が続きました。
群来とは、ニシンの大群が前浜に押し寄せ、雄の精子で海が白く濁る現象。
現在では、北海道内の各地区で年間200万尾以上の稚魚が放流され、半世紀ぶりの群来があるなど回復傾向をみせています。

『石狩挽歌』は、ニシンの群来を願う漁師の切ない心を歌った曲。
では、この歌は、いつ頃の小樽をイメージしてできた歌なのでしょう?
歌ができた当時は昭和50年ですから、日本海側のニシン漁はサッパリで、ニシン御殿も「オンボロロ・・・♫」の時代です。
ヒントは歌詞の「沖を通るは 笠戸丸」にありました。

ニシン全盛時代の栄華を今に伝える小樽市祝津の旧・白鳥永作番屋
ニシン全盛時代の栄華を今に伝える小樽市祝津の旧・白鳥永作番屋
小樽市祝津の茨木家中出張番屋
小樽市祝津の茨木家中出張番屋

「笠戸丸」は日本一波乱にとんだ船

「笠戸丸」(6023t)は、明治33年、イギリスの造船会社Wigham Richardson & Co.で造船されたPotosi(ポトシ)で、リバプール~バルパライソ間航路に就航する予定でしたが、輸送需要の減少により、ロシア義勇艦隊協会に11万ポンドで売却され、医療施設の整備などを追加工事して戦時には病院船に転用できる貨客船Kazan(カザン)に改造されます。
オデッサ~長崎~ウラジオストックなどの外洋航路で活躍。明治36年4月、ロシア太平洋艦隊の補助船としてウラジオストック所属となり、旅順港に配船。

明治38年、映画『二百三高地』、 司馬遼太郎 『坂の上の雲』などで知られる旅順攻囲戦では、ロシア艦隊の病院船に転身。日本軍の攻撃を受け旅順港で被弾し着底。日本海軍が浮揚接収の後、海軍・呉鎮守府の所属となり「笠戸丸」と命名されます。
笠戸丸という船名は、山口県下松(くだまつ)市の笠戸島に由来する名です。
明治39年、東洋汽船が海軍から「笠戸丸」を借り受け、極東・南米西岸航路に就航。明治39年8月26日、646人のハワイ移民を乗せて神戸を出航(移民船としての初航海)。
明治41年、神戸港を出航する第1回ブラジル移民船に使用され、「ブラジル移民の船」として歴史に名を残します。
明治42年、海軍から大坂商船に貸し出され、豪華客船に改造、明治43年、台湾航路(神戸~キールン)に就航。
明治45年に海軍から大阪商船に払い下げられ(初めて軍籍を離れます)、「笠戸丸」と「信濃丸」(日本郵船)が台湾への航路として脚光を浴びます。
第一次世界大戦が勃発した大正3年には日本~ブラジル、アルゼンチンの南米東海岸航路が脚光を浴び、「笠戸丸」は再び南米航路に。
排日移民法が米国議会を通過した大正13年には、神戸港を出航する最後のハワイ移民船となっています。

ここまでは太平洋航路、南米航路、台湾航路の貨客船、豪華客船としての活躍で、まだ北海道には姿を見せていません。

ブラジル、サントス港 (Santos) に入港中の「笠戸丸」
ブラジル、サントス港 (Santos) に入港中の「笠戸丸」

「笠戸丸」となかにし礼の関係は、小樽つながり!?

昭和5年、大阪商船から東洋興行に売却され、いわし工船に改造。いわし漁船団は、北朝鮮からウラジオストック沖までの日本海を漁場として活躍。
昭和6年、イワシが不漁のため、新興水産に売却され、翌年、フィッシュ・ミール工船に改造。アラスカ沖の漁場に就航。
昭和13年、日本水産の蟹工船として転売され、西カムチャッカなどに出漁。
昭和16年、民間物資を運ぶ輸送船として徴用。
昭和19年、小樽海軍武官府で、「キ504船団」が編成され、7月5日、小樽港から北千島ホロムシロ島・柏原湾へ。
昭和20年7月25日、「第2龍寶丸」(2230t)とともに、海防艦2隻に護衛され、小樽港から西カムチャッカ・ウトカへ。
8月8日、新巻2100、缶詰2300函、塩蔵マス550tを積載。
昭和20年8月9日(ソ連参戦の日)、カムチャツカ半島西岸の日魯漁業ウトカ工場沖に停泊中にソ連軍に接収され爆沈。

実に数奇な運命を担った笠戸丸です。

なかにし礼(本名:中西禮三)は、昭和13年9月、旧満州国牡丹江省牡丹江市(現・中華人民共和国黒竜江省牡丹江市)生まれ。ハルピンで終戦を迎え、昭和21年10月、父母の故郷、小樽に到着。手宮西小学校2年に編入。
満州から帰還した中西一家。
なかにし礼著『兄弟』(テレビ朝日の開局40周年記念スペシャルドラマ『兄弟〜兄さん、お願いだから死んでくれ〜』)などによれば、中西家を背負った兄の政之(14歳年上)は、両親の家を担保に増毛(ましけ)のニシン網の権利を3日間買い、見事大漁の網を曳きます。さらに一攫千金を夢見て、そのニシンを本州へ運ぶことに。その途中で船が沈んで大量の借金が残り、一家離散の憂き目に・・・。
8歳のなかにし礼は、兄の中西政之が増毛でニシン漁を行なったのを見ているのです。

結論としていえば、第二次大戦中末期の北千島ホロムシロ島への輸送船のときの光景と考えるのが自然ではないでしょうか・・・。
いずれにせよ、中西少年は実際にその姿を見てはいません。

しかし、チラリと「笠戸丸」を歌詞に挟むところは、さすがに、阿久悠と並ぶ2大作詞家の面目躍如! ですね。

ニシンで財を成した青山家が大正6年から6年半余りの歳月をかけ建てた別荘が旧青山別邸
ニシンで財を成した青山家が大正6年から6年半余りの歳月をかけ建てた別荘が旧青山別邸
にしん御殿小樽貴賓館旧青山別邸
名称 にしん御殿小樽貴賓館旧青山別邸/にしんごてんおたるきひんかんきゅうあおやまべってい
所在地 北海道小樽市祝津3-63
関連HP 小樽貴賓館公式ホームページ
ドライブで 札樽自動車道小樽ICから約7.5km
駐車場 30台/無料
問い合わせ 小樽貴賓館 TEL:0134-24-0024
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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ラジオ・テレビレジャー記者会会員/旅ソムリエ。 旅の手帖編集部を経て、まっぷるマガジン地域版の立ち上げ、編集。昭文社ガイドブックのシリーズ企画立案、編集を行なう。その後、ソフトバンクでウエブと連動の旅行雑誌等を制作、出版。愛知万博公式ガイドブックを制作。以降、旅のウエブ、宿泊サイトにコンテンツ提供、カーナビ、ポータルサイトなどマルチメディアの編集に移行。

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