神奈川県横浜市西区、横浜市で最初の公園として開園した野毛山公園の散策地区にあるのが、佐久間象山顕彰碑。野毛山動物園の東側に広がる緑豊かな散策地区ですが、その動物園寄りに立つのが佐久間象山顕彰碑で、横浜開港を熱望した佐久間象山を顕彰し、昭和29年に建立されたもの。
「横浜開港の先覚者」として佐久間象山を顕彰
野毛山公園の佐久間象山顕彰碑は、昭和29年10月1日、開国100年を記念して「横浜開港の先覚者」である佐久間象山を顕彰して建立された碑。
安政元年1月14日(1854年2月11日)、ペリーの再来航に際し、幕府は横浜に応接所を設置、
松代藩と小倉藩に応接所の警備を命じています。
松代藩士・佐久間象山(さくまぞうざん・さくましょうざん)は、軍議役として警備に参加し、ペリー提督を間近に見て、「思いの外穏便な者だったが、オランダ人よりは一回り大きく、丈も高く肉も随分付き太っていた」と記しています。
林復斎(はやしふくさい)とペリー提督の間で、嘉永7年3月3日(1854年3月31日)に日米修好通商条約を締結、その後、ペリーは横浜村を散策し、その様子を佐久間象山は、「一昨日ペルリが上陸した節、通り掛けに我らの前を過ぎた時、ちょっと会釈して通った」と記していて、これを後世、佐久間象山の気迫に圧倒されたペリーが会釈したなどと伝わっているのです。
佐久間象山は身長が180cm近くと、当時の日本人の平均身長から考えるとかなりの大男で、眼光鋭く、威圧感を感じる風体だったと推測できます。
佐久間象山の顕彰碑が開港の地・横浜を眼下にする野毛山に立つのは、開港場として下田ではなく、軍事上の利点から横浜村が最適の地であることを強く主張したからとのこと。
ただし、横浜開港を持論に積極的に横浜開港を進めたのは井伊直弼(いいなおすけ)に仕えた岩瀬忠震(いわせただなり)で、一般的にはこのふたりが、横浜開港の立役者とされ、歴史的には佐久間象山が横浜開港に関与したとは考えにくいのです(佐久間象山は、日米修好通商条約締結時、自分の門弟である吉田松陰が国禁を犯したために連座して蟄居中)。
結論をいえば、日米修好通商条約と佐久間象山の持説を後世に結びつけ、「横浜開港の恩人」説が生まれたということに。
佐久間象山顕彰碑には、ちゃんと、佐久間象山は、「横浜開港の先覚者」と記されているので、間違いではありません。
野毛山公園・佐久間象山顕彰碑 | |
名称 | 野毛山公園・佐久間象山顕彰碑/のげやまこうえん・さくまぞうざん(しょうざん)けんしょうひ |
所在地 | 神奈川県横浜市西区老松町 |
電車・バスで | 京浜急行線日ノ出町駅から徒歩8分 |
ドライブで | 首都高速横羽線みなとみらいランプから約1.5km |
駐車場 | 野毛山有料駐車場(110台/有料) |
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