神奈川県横浜市金沢区野島町、野島公園の中心、野島山の南山腹に建つのが、野島稲荷神社。野島は江戸時代に金沢八景の一つ「野島夕照」と詠われた景勝の地で、神社近くには江戸時代初期に紀伊和歌山藩主・徳川頼宣(とくがわよりのぶ=徳川家康の十男)の別邸があったと伝えられています。
江戸時代初期には神社近くに徳川頼宣の塩風呂御殿が
鎌倉時代の安貞元年(1227年)に阿波守・長島維忠の発願で、その子・修理佐頼勝が創建したと伝えられる古社。
江戸時代初期、徳川頼宣が野島の南側の浜に御殿を造営し(塩風呂御殿)、その艮(うしとら)の方角に鎮座するため、鬼門封じの社として社殿造営にも尽力したと伝えられています。
別当(神社を管理する寺)は善応寺(現・金沢区野島町の染王寺)でしたが、江戸時代にはたびたび修築されていたことが記録され、多くの参拝者を集めていたことがわかります。
明治41年9月、明治政府の神社合祀の政策で、近隣の天照皇大神、厳島神社、天満宮を合祀しています。
神社裏の崖には溝が掘られ、崖から滴る水を集めて溜める仕組みに。
例大祭は、毎年7月第1日曜に、毎年9月1日には『汐祭』(金沢漁港の大漁を祈願する祭礼)斎行され、野島囃子保存会が野島の囃子・木遣りが奉納しています。
横浜市戸塚区戸塚町の冨塚八幡宮(とみづかはちまんぐう)の兼務社です。
野島山の頂には野島稲荷神社の別当(神社を管理する寺)だった善応寺(応永12年・1405年創建)が建っていたとされますが(『新編武蔵風土記稿』)、南風で倒壊し、現在の金沢区野島町に移転、明治40年に野島の正覚院を合わせて染王寺と改称しています。
紀州藩主・徳川頼宣が行なった塩湯治(潮湯治)とは!?
紀州藩主・徳川頼宣は、中風の持病があったため、塩湯(『南紀徳川史』)、塩あみ(『徳川実紀』)を野島で行なったと記されています。
記録では寛永19年(1642年)8月には野島での塩湯の記録が残されています。
万治年間(1658年〜1661年)に塩風呂御殿が築かれたとする説もありますが、『南紀徳川史』などにはそれ以前の記録が多く残るので、寛永年間(1624年〜1644年)にはすでに中風に悩み、野島で潮湯治していたことがわかります。
この塩湯治(潮湯治)は海水に浸かるもので(明治時代の海水浴は海中の棒にぶら下がるものでした)、平安時代の末期頃から塩湯治が行なわれるようになり、鎌倉時代には一般化しています。
『尾張名所図会』(おわりめいしょずえ)にも裸で海水に浸かる人達が「潮湯治」(知多大野の潮湯治)として紹介されています(尾張藩内では、大野の潮湯治が病気治療に効果があることが伝播されていました)。
同様に、江戸に近く、風光明媚な野島も塩湯治(潮湯治)には絶好だったと推測できます。
野島稲荷神社 | |
名称 | 野島稲荷神社/のじまいなりじんじゃ |
所在地 | 神奈川県横浜市金沢区野島町23-1 |
関連HP | 横浜金沢公式ホームページ |
電車・バスで | シーサイドライン野島公園駅から徒歩10分 |
ドライブで | 横浜横須賀道路朝比奈ICから約5km |
駐車場 | 第1駐車場(104台/有料)・第2駐車場(52台/有料)・室ノ木地区臨時駐車場(150台/有料) |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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