三条大橋

三条大橋

京都市街を流れる鴨川に架かる、江戸時代の東海道と中山道の終点となる三条大橋。現在の橋は昭和25年に架橋されたものですが欄干には豊臣秀吉の命により改修された時代の擬宝珠も配されています。室町時代初期には、簡素な構造の橋が架かっていましたが、本格的な橋梁は、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が増田長盛に命じて架橋。

江戸時代には東海道と中山道の終点に

三条大橋

江戸時代には幕府直轄の公儀橋となり、流出すると幕府の経費で架け替えが行なわれました。
橋の西のたもとに『東海道中膝栗毛』の弥次さん喜多さんの像が立っています。
また、西詰め北側には、江戸時代に藩や幕府の高札を立てた「高札場跡」が残されています。
大正6年4月27日に日本最初の駅伝という『東海道駅伝徒歩競走』が京都・三条大橋〜東京・上野不忍池間(23区間)で行なわれたことから、駅伝の碑も立っています。

三条河原は、文禄4年(1595年)、豊臣秀次の妻子側室侍女など39名が処刑された場所。
関ヶ原の戦いで敗れ、六条河原で斬首刑となった石田三成の首が晒されたのもこの三条河原。
幕末には、通称「人斬り以蔵」こと岡田以蔵(おかだいぞう=幕末の土佐藩郷士で幕末の四大人斬りの一人)、近藤勇などが処刑されています。
また 文禄3年8月24日(1594年10月8日)、石川五右衛門が釜ゆでになったと伝わるのも三条河原です(墓は京都の大雲院にあります)。

三条大橋

浮世絵に見る 三条大橋

東海道五拾三次 三条大橋
広重『東海道五拾三次』京師 三條大橋(保永堂版)

歌川広重の保永堂版(1833年〜1834年)『東海道五拾三次』に描かれた54枚目が「京師(けいし) 三條大橋」。
三条大橋から見た東山、比叡山は当時から京都らしい風景として認知されていました。
よく見る清水寺も描かれています。
橋上を歩くのは京都らしく被衣(かずき)を着た公家の女性、そして茶筅売り(ちゃせんうり)です。
三条大橋の橋桁は木組みで描かれていますが、実際の三条大橋は石組みでした。

香蝶楼国貞『東海道五十三次之内 京三條大橋』
香蝶楼国貞『東海道五十三次之内 京三條大橋』佐野喜(佐野屋喜兵衛 喜鶴堂)判

国貞(三代歌川豊国の前名)描くこの東海道シリーズが『東海道五十三次』で、シリーズを通して五十三次の風景をバックにして前面に立姿の美人を描いたもの。

三条大橋
名称三条大橋/さんじょうおおはし
所在地京都府京都市中京区中島町
電車・バスで京阪三条駅から徒歩2分。または、地下鉄東西線京都市役所前駅から徒歩5分
駐車場市営御池地下駐車場(1000台/有料)
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
古川町橋(白川一本橋)

古川町橋(白川一本橋)

京都市東山区を流れる白川に架かる橋が古川町橋(ふるかわまちばし)。現存するレトロな石橋は、明治40年の架橋で、比叡山の千日回峰行『京都大廻り』の際、修行後にこの橋を渡ることから行者橋、阿闍梨橋(あじゃりばし)、さらに石が一本だけで欄干もない

瑞泉寺

瑞泉寺

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三条大橋擬宝珠の刀傷

京都、鴨川に架かる三条大橋に取り付けられている擬宝珠(ぎぼし)は昭和25年の架橋の時に往時のスタイルで新造されたものと、以前の擬宝珠をそのまま活用したものがあります。再活用の擬宝珠のなかには刀傷がついたものもあり、この刀傷は新選組が池田屋を

弥次さん喜多さんの像

弥次さん喜多さんの像

京都、三条大橋の西のたもとにあるのが弥次さん喜多さんの像。江戸時代後期の戯作者・十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛』には、弥次さん喜多さんが清水寺に詣でた後に、三条大橋付近に宿泊する話が登場します。平成6年に三条小橋商店街振

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渡月橋

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