後白河天皇法住寺陵

後白河天皇法住寺陵

京都府京都市東山区、蓮華王院(三十三間堂)の東、法住寺にあるのが後白河天皇法住寺陵(ごしらかわてんのうほうじゅうじのみささぎ)。平清盛による平家の黄金時代、そして源氏の台頭という激動の時代に天皇、そして譲位後は34年に渡り院政で権力を保ったのが後白河天皇(譲位後は上皇)です。

院政を敷いた後白河上皇の御所「法住寺殿」跡

永暦元年(1160年)、後白河上皇(出家後は後白河法皇)は、焼失した三条殿に代わる新たな院政の拠点として、七条大路の東端に広大な御所「法住寺殿」を築き、法住寺殿を拠点に院政を敷いたのです。
俗に院政時代と呼ばれるのは、白河・鳥羽・後白河3代の上皇の治世で、平家滅亡、源頼朝台頭までの時代。

泉涌寺道の北側、現在の京都国立博物館、蓮華王院(三十三間堂)、新熊野神社(いまくまのじんじゃ=京都三熊野の一社)、大谷高校という広大な一帯はすべて法住寺殿の敷地。
蓮華王院(三十三間堂)、熊野三山の熊野権現を勧請して創建した新熊野神社は後白河上皇が法住寺殿鎮護のために平清盛に命じて御所(法住寺殿)内に建てたもの。

平清盛の進める日宋貿易にも理解を示して後押しし、仁安3年(1168年)、平清盛が海に浮かぶという奇想天外な社殿を整えた厳島神社にも、承安4年(1174年)、後白河法皇は、皇太后の平滋子(たいらのじし/宮島行幸時には建春門院)を伴って御幸しています。

後に院政を嫌った平清盛と対立し、平清盛没後は源義仲(木曾義仲)に平氏追討宣旨を下し、源頼朝と源義仲(木曾義仲)の対立では源頼朝に味方して、寿永2年11月19日(1184年1月3日)の法住寺合戦で、法住寺殿は義仲軍により焼き払われ、後白河法皇も五条東洞院邸に幽閉されています。
寿永3年(1184年)、源義仲(木曾義仲)が、源義経軍に敗れ、後白河法皇も開放され、平宗盛追討の宣旨を出し、一ノ谷の戦いへと繋がっています。

東大寺大仏開眼供養、奥州合戦などの終わった、建久元年(1190年)に源頼朝と対面し、1192年4月26日(建久3年3月13日)、源頼朝の権力掌握を見届けた頃に崩御。

陵墓はかつての法住寺殿内に築かれ、以降、法住寺が陵を守ってきましたが、明治以降は宮内省(現・宮内庁)の管理する天皇陵となっていて、土・日曜、祝日以外は拝所まで入ることができます。

ちなみに、法住寺は、漫画『サザエさん』の作者・長谷川町子の菩提寺。

後白河天皇法住寺陵
名称 後白河天皇法住寺陵/ごしらかわてんのうほうじゅうじのみささぎ
所在地 京都府京都市東山区三十三間堂廻り町
関連HP 宮内庁公式ホームページ
電車・バスで 京阪電気鉄道七条駅から徒歩10分
ドライブで 名神高速道路京都南ICから約6.4km。または、阪神高速8号京都線鴨川東出口から約1.6km
駐車場 30台/無料
問い合わせ 宮内庁書陵部月輪陵墓監区事務所 TEL:075-541-2331
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

新熊野神社

熊野信仰盛んな1160(永暦元)年、後白河上皇が平清盛・重盛に命じて京に創建された神社が新熊野神社(いまくまのじんじゃ)。退位後に院政を敷いた際に、住まいとしたのが現在の京都市東山区に建つ法住寺周辺(法住寺殿)。その鎮守社として新熊野神社が

蓮華王院(三十三間堂)

一般には三十三間堂の名で知られていますが、正式には蓮華王院(れんげおういん)で、天台宗の古刹。妙法院に属する堂で、妙法院の境外仏堂。1164(長寛2)年に後白河上皇が離宮として建てた法住寺殿の一角に平清盛に命じて創建したもの。建物は国宝、堂

法住寺

法住寺

京都府京都市東山区、蓮華王院(三十三間堂)の東に建つ天台宗の寺が法住寺(ほうじゅうじ)。永延2年(988年)、太政大臣・藤原為光(ふじわらのためみつ)が創建した古刹。永暦元年(1160年)、後白河上皇の御所である法住寺殿がここに築かれ、後白

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!

よく読まれている記事

こちらもどうぞ