京都府京都市東山区、白川の清流沿い、和菓子の「餅寅」から少し入った路地裏にあるのが明智光秀首塚。明智光秀は、天正10年6月13日(1582年7月2日)、坂本城を目指して落ち延びる途中、小栗栖の竹藪(現・明智藪)で落ち武者狩りにあい、その首が埋葬されたのがこの首塚との伝承があります。
明智光秀の首を埋葬したと伝わる塚
足利義昭、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉と親しかった公卿・吉田兼見(よしだかねみ)の記した『兼見卿記』(かねみきょうき)の天正十年六月二十三日の記事、そして公卿・山科言経(やましなときつね)『言経卿記』(ときつねきょうき)の天正十年七月二日の記載には、明智光秀の首は、粟田口で重臣の首とともに数日晒され、近くに埋められたとあり、その首塚がこの明智光秀首塚だと推測されるのです。
歴史家の黒川道祐(くろかわどうゆう)によって天和2年(1682年)〜貞享3年(1686年)に記された山城国の地誌『雍州府志』(ようしゅうふし)、安永9年(1780年)に刊行された『都名所図会』(みやこめいしょずえ)にも、三条通北側の人家の裏側にあるとされているので、可能性はさらに高まります。
明智光秀の胴は、現在の山科区勧修寺御所内町に明智光秀胴塚と伝わる場所があります。
明智光秀の首塚は、亀岡市の谷性寺にもあり、こちらは、明智光秀の介錯をした溝尾茂朝(みぞおしげとも=溝尾庄兵衛が光秀の首を近臣に託し、生前に信仰していた谷性寺へと運び葬ったと伝えています。
ただし、『兼見卿記』に、明智光秀の首は百姓に見つかり翌日、織田信孝(おだのぶたか)に差し出されたと記され、晒し首にされたとするのが定説です。
明智光秀首塚は、「餅寅」が代々にわたって管理しているとのこと。
桔梗紋の入った「光秀饅頭」が土産に人気です。
明智光秀首塚 | |
名称 | 明智光秀首塚/あけちみつひでくびづか |
所在地 | 京都府京都市東山区梅宮町474-23 |
電車・バスで | 地下鉄東山駅から徒歩5分 |
ドライブで | 名神高速道路 京都東ICから約7km |
駐車場 | 周辺の有料駐車場を利用 |
問い合わせ | 京都総合観光案内所 TEL:075-343-0548 |
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