江戸時代、江戸市中にあった大名屋敷には各藩なだたる寺社の分社・分寺が勧請されていました。月に1回の縁日を決めて公開されて人気を博したのが、金毘羅(こんぴら)さんで知られる、丸亀藩江戸上屋敷の金毘羅大権現。江戸時代の後期には、久留米藩の水天宮と並ぶ2大人気スポットになっていました。
ブームを呼んだ江戸の金毘羅参り!
金毘羅大権現は、お座敷唄、道中唄の『金毘羅船々』の歌詞にあるように、讃州那珂の郡(さんしゅうなかのごおり)、象頭山金毘羅大権現(ぞうずさんこんぴらだいごんげん)。
今風の歌詞に直せば、香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮(ことひらぐう)ということに。讃州(さんしゅう)は讃岐(さぬき)の国、つまりは、「うどん県」こと香川県。象頭山(ぞうずさん)は、瀬戸内を航海する船乗りたちが目印とした山。大宝年間(701年〜704年)に修験道の祖・役小角(えんのおづぬ=神変大菩薩)が象頭山に登った際に、護法善神金毘羅の神験に遭ったのが開山の理由と伝承されているのです。
江戸時代、関東では、丹沢・大山への大山詣、箱根権現(現・箱根神社)への箱根詣で、そして江島弁財天への江の島詣、遠く神宮への伊勢詣などが隆盛を極めましたが、関西以西や北前船の寄港地では、瀬戸内海の舟運や西廻り航路を利用した金毘羅詣が盛んだったのです。
そんな背景もあって、1660(万治3)年、讃岐丸亀藩主・京極高和は、三田の丸亀藩上屋敷に金毘羅大権現を勧請。
1679(延宝7)年、2代丸亀藩主・京極高豊が、虎ノ門近くに江戸上屋敷を移転。それに伴って金毘羅大権現も虎ノ門の藩邸内に移ります。
その後、金毘羅参詣のブームの高まりとともに、毎月10日に限り、金毘羅大権現の参詣を庶民に許すことを幕府に願い出て、江戸での金毘羅詣が可能となります。
江戸城には32の城門がありましたが、西に位置する虎ノ門は、西方を守護する神獣「白虎」に由来する名。金毘羅大権現は、虎の門外にあるので、俗に「虎の門の金毘羅」と呼ばれていました。
下の版画は、1861(文久元)年に出版した『江戸名勝図会』の1枚。2代歌川広重が描いたもので、金毘羅大権現の白い幟(のぼり)がかかる邸内に、行列をなして、押すな押すなの大盛況の縁日(10日)だったことがわかります。
明治の神仏分離で大権現から神社に
わざわざ四国まで出向かなくても御利益が得られるとあって、人気が出たことは当然。
しかも財政難の藩にとっては、貴重なサイドビジネスになったと想像できます。
明治維新を迎え、神仏分離令が出されると、神仏混淆(しんぶつこんこう)の金毘羅大権現は、神社へと変わります。それが現在、虎ノ門に鎮座する虎ノ門金刀比羅宮です。権現の権(げん)は「仮」にという意味で、日本の神々が日本仏教に取り入れられた際に、仏が「仮に」神の形で「現れた」という意味です。神仏分離は、この仏教の本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想の完全否定で、全国各地の権現様は、神様に戻ったのです。
たとえば日光山輪王寺の東照大権現(徳川家康の天台宗による神号)は、東照宮に変わったのです。
神仏混淆の金毘羅大権現が、金刀比羅宮に変わり、江戸城の南端を守った虎ノ門も今はありません。虎ノ門金刀比羅宮の境内には、虎ノ門琴平タワーが聳え立っていますが、それでも拝殿前の銅鳥居は江戸時代のものなど、丸亀藩邸の中にあった時代をわずかに偲ぶものがあります。
下の浮世絵は、初代歌川広重の『江戸名所 虎御門外 金比羅社 葵坂』。1857(安政4)年の出版。葵坂ですから現在の港区虎ノ門2-1あたり。虎ノ門病院から特許庁へ抜けるあたりにあった葵坂は、溜池の埋立時に丘が削られ、消失しました。坂の北側には溜池から流れ出る水の落ち口があり、どうどうと音をたてていたことから「どんどん」と呼ばれていたそうです。
『江戸名所 虎御門外 金比羅社 葵坂』では人物の背後に丸亀藩上屋敷が描かれ、白い幟が金毘羅大権現です。
【知られざる東京】丸亀藩上屋敷の金毘羅大権現(虎ノ門金刀比羅宮) | |
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