松倉城は、16世紀後半、高山に進出した飛騨地方南部の領主・三木氏が拠点として標高856.7m、比高360mほどの松倉山(岐阜県高山市)に築いた中世の山城。尾根筋に堀切や曲輪を設け、山頂部には石垣で囲まれた本丸、二ノ丸、三ノ丸が残されています。山頂に高石垣が残されるという山城としても珍しい例で、国の史跡になったもの。
高山城築城以前には飛騨支配の拠点だった山城

築城は、天正7年(1579年)、飛騨姉小路氏(三木姉小路氏)の当主・姉小路頼綱(あねがこうじよりつな=三木自綱)。
姉小路頼綱の正室は斎藤道三の娘なので、織田信長とは相婿(あいむこ=姉妹の夫同士)という関係で、家督継承直後の天正3年(1575年)、上洛の際には信長に馬を献上しています。
築城直前の天正6年(1578年)には正式に織田信長と同盟関係に。
本拠を下呂にあった桜洞城(さくらぼらじょう/現・岐阜県下呂市)から松倉城に移したのは飛騨統一と、越中・越後を睨んでのこと。
信長配下で越中を領有する佐々成政に加勢して上杉征討にも加わっています。
山頂部の本丸とその南西に伸びる三ノ丸には、5m~8mの高さの石垣が組まれています。
しかも隅角部に算木積みの石垣があり、西側と南側側は手厚い守りとなっています。
本丸の東にある二ノ丸では、北側と南側に小型の石材を用いた低い石垣が、東側に大部分を中小石材で築いた2段の石垣があり、北側と東側の守備を意識した石垣となっています。
こうした2系統の城郭遺構から、「土造りの城」から「石垣を有する城」へと、2段階で築城されたことが推測されています。
天正10年(1582年)に織田信長が没すると、飛騨や越中も混乱し、羽柴秀吉が覇権を得ると、敵対する越中・佐々成政の追討が始まり、佐々成政と同盟関係の三木姉小路氏も討伐の対象に。
越前大野城主・金森長近(かなもりながちか)の攻撃を受け、難攻不落を誇った松倉城も味方の裏切りもあって落城。
松倉城は、金森氏の管理下に置かれて石垣の構築など近世的な改修を受けています。
本丸の北側、三ノ丸の埋門や虎口などは破壊されているので、廃城となった際に破城(はじょう=城の破壊)されたこともわかっていますが、これは天正16年(1588年)、高山城が築城されて飛騨支配の拠点という役割を失ったから。
高山市では、地域の資源として活用を図ることを目的として、平成22年〜平成25年に中枢部の現況地形と石垣の測量調査を、令和元年〜令和4年に発掘調査と関連史料調査などを含めた総合的な調査を実施。
その成果から、国の史跡になったのです。
取材・画像協力/高山市


飛騨高山の松倉城が「国の史跡」に! | |
所在地 | 岐阜県高山市松倉町2059 |
場所 | 松倉城 |
ドライブで | 高山清見道路(中部縦貫自動車道)高山ICから約7km |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
最新情報をお届けします
Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!
Follow @tabi_mag