1584(天正12)年、豊臣秀吉により近江・日野城主から伊勢・松ヶ島城に封じられた蒲生氏郷(がもううじさと)が、四五百森(よいおのもり)に、1588(天正16)年に完成させた平山城が、松坂城。江戸時代初期には松坂藩の藩庁が置かれ、廃藩後は城代が詰めていました。現在は石垣のみが残っており、城址公園になっています。
蒲生氏郷の築城と町割りが商都・松阪発展の基盤
蒲生氏郷が入封した時代の城は伊勢湾に臨む松ヶ島城(現・三重県松阪市松ヶ島町)でしたが、城下が手狭になったため四五百森に新城を築いたのです。
松坂城(松阪城)の築城とともに町割りも行ない、城下町の中央に前任地の近江日野から日野商人を、湊町には伊勢大湊の廻船問屋の角屋家を呼び寄せ、商都・松阪発展の基礎を築きました。
城は東に正門である大手、南に裏門となる搦手(からめて)を配し、外郭に深田堀、水堀を巡らせています。
四五百森北峰の本丸には3層5階の天守が築かれ、その南側に二の丸が配されていました。
1619(元和5)年、松坂(現・松阪)は紀州徳川家の祖・徳川頼宣(とくがわよりのぶ=徳川家康の十男)の領地となったため、勢州18万石を統轄する紀州藩松坂城代が置かれました。
天守などは荒廃し、1794(寛政6)年、二の丸に紀州藩陣屋が築かれ、紀州藩の出城として明治維新を迎えています。
穴太衆が積んだ蒲生氏郷時代の石垣も現存!
明治時代になって門などの建造物は取り壊され、明治10年、失火で二の丸御殿を焼失。
現在、松坂城の遺構は石垣が残るのみですが、一帯は松阪公園となって整備されています。
蒲生氏郷は安土城の築城にも関係していますが、蒲生氏郷時代の石垣は、領地の専門集団・穴太衆(あのうしゅう)が積み上げたもの。
突貫工事で築城されたため、石垣には周囲の寺社の石や古墳に埋葬された石棺まで活用されています。
昭和63年〜平成15年に11億の費用を投じて「平成の松坂城石垣修復」が行なわれ、美しい石垣が蘇っています。
殿町ある御城番屋敷は、松坂城警護のため40石取りの紀州藩士20人とその家族が住んだ組屋敷で、1863(文久3)年に建築されたもの。
このような組長屋は全国にも大変珍しいものです。
また松阪公園内には本居宣長記念館、松阪市立歴史民俗資料館があるので、松坂城登城の際にはあわせて見学を。
明治3年に大坂が大阪となったのに倣い、明治22年4月1日の町村制実施の際に松坂が松阪に変更されています。
町村制実施で、松坂城下の大部分、さらに鎌田村、西岸江村、垣鼻村、大黒田村、西之庄村の一部で、飯高郡松阪町が発足しています。この時以降、松坂が松阪となりました。というわけで江戸時代の城の名は大坂城と同様に松坂城が正しい表記です。
正保絵図に見る 松坂城
松坂城 | |
名称 | 松坂城/まつさかじょう |
所在地 | 三重県松阪市殿町1385 |
電車・バスで | 近鉄山田線松阪駅から徒歩15分 |
ドライブで | 伊勢自動車道松阪ICから約5km |
駐車場 | 200台/無料 |
問い合わせ | 松阪市観光交流課 TEL:0598-53-4406 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
松坂城 DATA
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