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維新の三傑の終焉の地&墓はどこにある!?

維新の三傑の終焉の地&墓はどこにある!?

徳川幕府を倒し、明治新政府の樹立に貢献した維新の三傑とは、西郷隆盛(薩摩藩)、大久保利通(薩摩藩)、そして木戸孝允(きどたかよし/長州藩)の3人。西郷は征韓論で下野し西南戦争で没していますが、維新の立役者は3人とも明治10年〜明治11年、40代の若さでこの世を去っています。

西郷隆盛の墓

墓の所在地:鹿児島県鹿児島市上竜尾町2-1(南洲墓地)
生誕地:薩摩国鹿児島城下加治屋町山之口馬場(現・鹿児島県鹿児島市加治屋町)
終焉の地:鹿児島県鹿児島市城山町(城山の西郷洞窟近く)
没年月日:明治10年9月24日/満49歳
死亡の理由:西南戦争の最終決戦地・城山で自害
称号:正三位を追贈
概要:薩長同盟、江戸城の無血開城などにも尽力した西郷隆盛は、明治4年から欧米を外遊した岩倉具視を特命全権大使、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳を副使とする岩倉使節団には加わらず、留守政府で近代化を進めますが、使節団の帰国後、征韓論を巡って岩倉具視、木戸孝允、大久保利通らと対立し、明治六年政変で下野
不平士族たちに担がれて西南戦争の将(賊軍の将)となります
明治22年2月11日、大日本帝国憲法発布に伴う大赦で赦(ゆる)され、正三位を追贈

西郷隆盛の墓

鹿児島県鹿児島市上竜尾町、薩軍兵士2023名が眠る南洲墓地(なんしゅうぼち)の一角にあるのが、西郷隆盛の墓。西郷隆盛を囲むように兵士の墓が並び、西郷隆盛と深い親交があった勝海舟(かつかいしゅう)が亡き友のために詠んだ歌碑が立っています。明治

西郷隆盛終焉の地

徴兵制、廃刀令は、旧士族にとっては許せないことで、明治9年10月24日の熊本県士族の神風連の乱を皮切りに、27日の福岡県士族の秋月の乱、28日の萩の乱と不平士族の乱が連続。それが西南戦争へと発展。総大将となった西郷隆盛は、鹿児島の城山へと追

大久保利通の墓

墓の所在地:東京都港区南青山2-32-2(青山霊園)
生誕地:薩摩国鹿児島城下高麗町(現・鹿児島県鹿児島市高麗町)
終焉の地:清水谷あたり(現・参議院清水谷議員宿舎前)
没年月日:明治11年5月14日/満47歳
死亡の理由:自邸から馬車で皇居に向かう途中、紀尾井町清水谷で不平士族に暗殺される
称号:贈右大臣、贈従一位、勲一等旭日大綬章
概要:公家の岩倉具視らとともに公武合体路線を指向し、王政復古の立役者として活躍、維新後には版籍奉還、廃藩置県などの明治政府の中央集権体制確立にも尽力、岩倉使節団の副使として外遊
帰国後、初代内務卿(参議兼任)として学制や地租改正、徴兵令などを実施、征韓論を唱える同郷の西郷隆盛とは対立し、西郷を下野に追い込んでいます
佐賀の乱(不平士族の反乱)を鎮圧し首謀者の江藤新平らを処刑
西南戦争では京都で政府軍を指揮
地元・鹿児島では「西郷どんの敵」とされ、長らく銅像も建立されませんでした(西南戦争百周年となった昭和54年に初めて建立)

大久保利通の墓

東京都港区南青山2丁目、青山霊園の一角にあるのが、大久保利通の墓。霊園北部の中央にあり2区1種イ15~19側1番、 西郷隆盛、木戸孝允(きどたかよし)とともに維新の三傑と称されるのにふさわしい偉容を誇り、鳥居をくぐった先に墓があり

大久保利通哀悼碑(清水谷公園)

東京都千代田区紀尾井町の清水谷公園にあるのが大久保利通哀悼碑。明治11年5月14日朝、大久保利通は石川県士族・島田一郎(しまだいちろう)ら6人の不平士族によって暗殺されました(紀尾井坂の変)。明治21年5月、西村捨三、金井之恭、奈良原繁らに

木戸孝允(桂小五郎)の墓

墓の所在地:京都府京都市東山区清閑寺霊山町1(京都霊山護國神社)
終焉の地:京都府京都市中京区土手町通夷川上る末丸町284(木戸孝允旧邸・達磨堂)
生誕地:長門国萩城下呉服町(現・山口県萩市呉服町)
没年月日:明治10年5月26日/満43歳
死亡の理由:大腸がんの肝臓転移
称号:贈従一位、勲一等旭日大綬章
概要:高杉晋作や久坂玄瑞らと並ぶ長州藩尊王攘夷派の指導者で木戸の苗字は、藩主から賜ったもの
藩を代表して薩長同盟を締結するなど王政復古に尽力
明治維新後は五箇条の御誓文の起草し、版籍奉還や廃藩置県など近代化を進める中心的な存在に
岩倉使節団では副団長を務め、欧米の現状を目の当たりにし、帰国後は、西郷隆盛の征韓論に反対し、西郷が下野
政府内では富国強兵政策に邁進する大久保地利通には批判的で、台湾出兵に反対して参議を辞任
西南戦争中、京都に移動する明治天皇に帯同し、京都で病状が悪化し、京都の別邸で死去(維新の三傑のうち、唯一、畳の上で没しています)

木戸孝允の墓

京都市東山区、京都霊山護国神社の墓地にあるのが、木戸孝允の墓。西郷隆盛、大久保利通とともに維新の三傑に数えられる木戸孝允(桂小五郎)は、京都の自邸で明治10年5月26日に病没(大腸がんの肝臓転移)。維新の三傑のうち、満43歳という若さですが

木戸孝允旧邸・達磨堂

長州藩士の桂小五郎(かつらこごろう/維新の三傑のひとり)は、明治維新を迎え、36歳以降は木戸孝允(きどたかよし)と名乗っています。その木戸孝允が構えた京都の邸宅跡は今の京都市職員厚生会「職員会館かもがわ」の一帯。長州藩士で当時の京都府知事・

維新の三傑の終焉の地&墓はどこにある!?
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維新の三傑の生誕地はどこ!?

徳川幕府を倒し、明治新政府の樹立に貢献した維新の三傑とは、西郷隆盛(薩摩藩)、大久保利通(薩摩藩)、そして木戸孝允(きどたかよし=桂小五郎/長州藩)の3人。西郷隆盛、大久保利通は石碑、標石があるのみですが、大久保利通は生誕の旧宅が現存してい

維新の三傑の銅像はどこにある!?

徳川幕府を倒し、明治新政府の樹立に貢献した維新の三傑とは、西郷隆盛(薩摩藩)、大久保利通(薩摩藩)、そして木戸孝允(きどたかよし=桂小五郎/長州藩)の3人。故郷などに建立される銅像ですが、人気の西郷隆盛は主なものだけでも3ヶ所もあり、大河ド

 

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