博多に元軍(蒙古とその支配下だった高麗の軍)が押し寄せた元寇。文永11年(1274年)、の文永の役、弘安4年(1281年)の2回あり、令和6年(2024年)は、文永の役、つまりは蒙古襲来750年となります。これまで定説だった「神風が吹いた」説ですが、近年では否定する説が有力に。
元軍数万の大軍が博多湾で上陸作戦を展開
文永11年10月5日(1274年11月4日)の午後、2万5000の元軍(蒙古軍・高麗軍)を乗せた900艘の元軍が対馬の西方海上に姿を表しました。
日本遠征のための船900隻などは当時、支配下にあった高麗に命じて造ったため、出費や食料の供出などがあり、高麗の人々は飢えに苦しんだといいます。
高麗の合浦(がっぽ)を出航した元軍は、まず対馬に上陸してこれを蹂躙(じゅうりん)。
蒙古軍はヨーロッパまで伝わるほどの残虐性で島人を苦しめました。
文永11年10月20日(1274年11月19日 )の夜明け前、日本の防衛線である対馬・壱岐を突破した元軍900隻の船団が博多湾に姿を現わします。
侵略戦争に慣れた元軍は、鉦(かね)や太鼓の合図で動く集団戦法で、弓の射程距離も200mあり、しかも矢の先には毒が塗られていました(日本軍の弓は100mが射程)。
しかも「てつはう」と呼ばれる火器も使われたことがわかっています。
この「てつはう」ですが、「弘安の役」(1281年)の舞台にもなった長崎県・鷹島沖海底で発見されたものは、直径13cmほどの陶器製の球体で、火薬が詰め込まれ、導火線で爆発する仕組みになっていました。
爆発による陶器片にも殺傷能力があったでしょうが、鎌倉時代中期・後期に成立した『八幡愚童訓』(はちまんぐどうくん)によれば、その轟音で、武士や馬が大いに驚いたようです。
対する日本軍は、『竹崎季長絵詞』(たけざきすえながえことば)にも描かれた肥後の竹崎季長など鎌倉幕府の御家人、臼杵、戸次、松浦党(まつらとう=壇ノ浦の戦いでは、平家方の水軍の主力)、菊池、原田、小玉党など九州の武士団が応戦し、しかも名乗りを上げて1対1で戦うような日本的なスタイルだったため、苦戦は免れませんでした。
元軍は、筥崎(はこざき)、赤坂、麁原(そはら)、百道原(ももじばる)、今津などに上陸を開始(元軍の中心勢力は鳥飼浜に上陸)、またたくまに日本軍を蹴散らしますが、なぜか常駐はせずに退却しています(元軍はたった1日で退却したというのが従来の定説でしたが、『関東評定伝』に10月24日に「大宰府合戦」という記述があるため、最近の研究では内陸部の要衝・大宰府辺りまで攻め込んで来たとの説が浮上しています)。
神風が吹いて元軍が撤退は、事実でない!?
江戸時代に福岡城が築かれたあたりが日本軍の中心、警固所があった場所で、当然、元軍もこの場所の攻略を目指します。
元軍は、初日の戦いでは警固所を攻めきることができず、祖原山に陣を構えています。
翌、10月21日(西暦11月20日)、元軍は突如として撤退し、博多から姿を消してしまうのですが、これが「神風が吹いたから」といわれるゆえんです。
近年の研究では、西暦11月20日に台風が来たとも考えづらく、実は元軍に日本侵略の意図はなく、鎌倉幕府を通交のテーブルに着かせるための「脅し」としての上陸作戦だったのではという説が有力です。
11月の荒れた日本海で、数万という軍の兵糧の確保もままならないため、「想定していた撤退」に踏み切ったのではないかと考えられるのです。
初の外国軍による侵略を受けた鎌倉幕府は、次なる攻撃を想定して、博多湾の内陸沿いに石築地(いしついじ)と呼ばれる防塁を20kmにわたって構築します。
これが、鎌倉時代後期の絵巻物『蒙古襲来絵詞』(もうこしゅうらいえことば)に描かれる生の松原の防塁で、実際に弘安4年(1281年)の弘安の役ではこの防塁が機能を発揮しています。
防塁の高さは2mで、その前面は砂浜。
つまり上陸した元軍は砂に足をとられ、馬も使えないという立地で、弓を射掛けるにも最適の場所でした。
生の松原防塁(肥後国御家人が担当)と今津防塁(大隅国・日向国の御家人が担当)の形状に違いがあるのは、幕府の直轄ではなく、突貫工事で築かれたためだと推測できます。
弘安の役で元軍は上陸すらできませんでしたが、この防塁が続く様を目にして、日本軍の準備がわかり、退却したのだとも推測されています。
元寇以降、朝鮮半島の南部の海岸では、倭寇(わこう)が猛威をふるいますが、この元寇による高麗軍参戦への報復的な意味合いもあったともいわれています。
蒙古襲来750年、実は、元寇で神風は吹かなかった!? | |
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