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日向国分寺跡

741(天平13)年、聖武天皇の詔によって全国に造られた国分寺(国分僧寺)のひとつ日向国(ひゅうがこく)の国分寺の跡。正式名は金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)で、広さは4haにも及び、往時には金堂、講堂、中門、回廊などがあったと推測されています。日向国国分寺跡は、国の史跡になっています。

奈良時代に聖武天皇が全国に建立した国分寺の跡

『続日本紀』(しょくにほんぎ)によれば、756(天平勝宝8)年に造営の日向国分寺。
金堂・講堂・塔・僧坊・食堂(じきどう)などが並んだ古代寺院でした。
国分寺前を東西に走っている道路も、古代の道の名残と推測できます。

当初は官寺だった国分寺ですが、中世に荘園制の発達で衰退し、江戸時代に遊行僧の木喰(もくじき)が請われて荒廃した寺の住職となりますが、1791(寛政3)年の大火で堂宇を焼失。

木喰上人は、7年間にわたって復興に尽力し、伽藍の建立や仏像(五智如来像)を作像しています。
真言宗の寺としては、明治4年の廃仏毀釈で廃寺になっています。

現在、木喰上人ゆかりの貴重な五智如来像を安置する木喰五智館が建っていますが、そのすぐ西側が金堂の跡。
伽藍中枢部と寺域の範囲が判明し、道を隔てた北側に講堂があったことがわかっています(寺域は一辺200m四方)。

九州各国の国分寺跡で出土する複弁軒丸瓦とは異なる単弁軒丸瓦が出土したことから、大宰府(だざいふ)との関係が想定されています。

国分尼寺は国分寺の北700mほどの宮崎県立妻高等学校の敷地にあったと推測されています(諏訪遺跡)。
日向国府(正殿・東脇殿・築地塀・雨落ち溝跡など)は、北に1.4Kmほど離れた寺崎・法元地区に確認されています。

また日向国分寺跡から北2kmほどの高台には、古墳311基が現存するという日本最大級の古墳群である西都原古墳群があり、一帯が古代の日本の中心的な存在だったことがよくわかります。

日向国分寺跡
名称日向国分寺跡/ひゅうがこくぶんじあと
所在地宮崎県西都市三宅
関連HP西都市公式ホームページ
ドライブで東九州自動車道西都ICから約5.5km
駐車場6台/無料
問い合わせ西都市社会教育課 TEL:0983-35-3009
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

木喰五智館

日向国分寺跡(ひゅうがこくぶんじあと)の金堂のあった地の東に建つのが木喰五智館(もくじきごちかん)。江戸時代、遊行僧の木喰(もくじき)は日向を旅した際に、この地の住人に請われて7年間寺住し、日向国分寺の再興に尽力しています。しかし、1791

都農神社

都濃町にある大己貴命(おおなむちのみこと=大国主神の若い頃の名前)を祭神として祀り、神武天皇が東征の際に立ち寄り、国土平安、海上平穏、賊徒征伐を祈願したと伝えられる古社が都農神社(つのじんじゃ)。日向国(ひゅうがのくに)の一之宮です。神武天

都萬神社

西都市にある古社、都萬神社(つまじんじゃ)は、日向国総社(ひゅうがのくにそうじゃ)で、二之宮。都萬(つま)とは、祭神の木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)が瓊々杵尊(ににぎのみこと)の妻であることを現しています。木花開耶姫命と瓊々杵尊

日向国分尼寺跡

聖武天皇は、741(天平13)年、仏教によって国家の理想を実現するという鎮護国家の方針から、全国に国分寺(金光明四天王護国寺)と国分尼寺(法華滅罪之寺)を建立しています。宮崎県立妻高等学校敷地一帯が日向国分尼寺跡です。校門近くには尼寺坂と通

日向国府跡

西都市を流れる一ツ瀬川が形成した河岸段丘上に位置する7世紀末〜10世紀前半の官衙遺跡(かんがいせき)。日向国分寺跡、国分尼寺跡や特別史跡「西都原古墳群」の点在する一角に、古代の日向国(ひゅうがのくに)の国府、国庁があったと推測される日向国府

 

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