西都市を流れる一ツ瀬川が形成した河岸段丘上に位置する7世紀末〜10世紀前半の官衙遺跡(かんがいせき)。日向国分寺跡、国分尼寺跡や特別史跡「西都原古墳群」の点在する一角に、古代の日向国(ひゅうがのくに)の国府、国庁があったと推測される日向国府跡があります。2haに及ぶ一帯が国の史跡。
平成10年度の調査で国庁の建物跡が発見された
昭和63年度から平成12年度にかけて、宮崎県教育委員会が国府、郡衙(ぐんが)、古代寺院跡など遺跡の分布調査と確認のための発掘調査が行なわれました。
平成10年度、最も多量の瓦が発見されることから国府の有力な推定地の一つだった寺崎遺跡の発掘調査で、掘立柱建物から礎石建物へと建替えがあったと推測できる建物跡を発見。
規模的に国庁正殿の一部と推定され、その後の調査で、東脇殿と推定される建物跡や築地を発掘。
ここが日向国の国府だったことが確実視されています。
南側の妻北小学校から見つかった木簡(もっかん)も、日向国府に関連した遺物だと推測できます。
7世紀末には、日向国は対隼人の最前線だった場所で、大宰府の管理下で、軍事部隊も駐屯していたと推測されています。
さらに8世紀末〜9世紀初頭に、平面形が「品」字形となる配置の建物群が完成し、名実ともに日向国府として整備されています。
国司が、国内各地の神社を巡拝する作業を簡略化するために、国府近くに分霊を勧請して創建した総社は、同じ西都市にある都萬神社(つまじんじゃ)、日向国一之宮は都農町の都農神社(つのじんじゃ)となっています。
総社が都萬神社であることから、『魏志倭人伝』に不弥国から南へ水行20日の位置にあったと記される「投馬国」(とうまこく)が、日向国都萬(現・西都市妻地区)ではないかと推測する考えもありますが、諸説あって定かでありません。
日向国府跡 | |
名称 | 日向国府跡/ひゅうがこくふあと |
所在地 | 宮崎県西都市右松 |
関連HP | 西都市公式ホームページ |
ドライブで | 東九州自動車道西都ICから約6.3km |
問い合わせ | 西都市社会教育課 TEL:0983-43-0846 |
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