長崎県長崎市の東山手地区(旧長崎外国人居留地)、オランダ坂の上に建つ東山手十二番館は、明治元年にロシア領事館として建築され、その後アメリカ領事館、メソジスト派(婦人外国伝道協会)の宣教師住宅として使用されていた洋館。旧居留地私学歴史資料館として公開されています。
明治元年に建てられた旧ロシア領事館
長崎港に向かって建ち、眺望を重視した設計。
東山手地区では現存最古の遺構で、直前まではプロシア領事館でしたが、新築後はロシア領事館となっていたことが判明しています。
幅のある廊下、大きな間取りの3つの部屋、そして幅広いベランダなど気品あふれる領事官時代の雰囲気を色濃く残しており、国の重要文化財に指定されています。
外壁の下見板張り(したみいたばり)は国内で最古の例です。
建物は修復され、「長崎市旧居留地私学歴史資料館」として外国人居留地に創設された私学の歴史を紹介する資料館に再生されています。
夜間はライトアップも実施。
建物横の坂道は活水女子大学東山手キャンパス(活水学院)とともに、さだまさし原作の映画『解夏』(げげ/平成16年、監督・磯村一路、主演・大沢たかお)のロケ地にもなっています。
活水学院も、明治12年、エリザベス・ラッセルが東山手16番館に「女学校」を設立し、開校したのが前身で、外国人居留地に創設された私学のひとつ(明治14年に活水女学校と命名、居留地制度は明治32年廃止)。
ジョン・G・ウォルシュと岩崎彌太郎
東山手12番地は安政6年(1859)7月に造成された長崎外国人居留地の一画で、幕末から明治初期にかけてはニューヨーク出身の実業家、ジョン・G・ウォルシュ(John Glia Walsh)が借地していた場所。
安政6年(1859)4月、駐日総領事タウンゼンド・ハリス(Townsend Harris)が長崎を訪問した時、すでに長崎では、アメリカ人商人が活躍していましたが、ウォルシュ商会を営むウォルシュもそのひとりでした。
当時、米国議会はまだ長崎の領事を任命していなかったため、急遽ハリスは初代アメリカ領事にウォルシュを任命。
アメリカ領事館は当初、広馬場の日本人居住区にありましたが、安政6年(1859)12月に火災にあったため、ウォルシュは東山手12番地の自宅を領事館にしています。
慶応元年(1865年)10月、ウィリー・P・マンガム(Willie P. Mangum)が後任領事として着任すると、南山手に新しいアメリカ領事館を建設(その後、東山手に戻り、また南山手十四番館の旧オルト邸を領事館に定めるなど転々としています)。
明治35年1月に東山手十二番館(現存する建物)がアメリカ領事館となり、大正10年まで東山手十二番館がアメリカ領事館として機能していました。
東山手12番地に最初に暮らしたジョン・G・ウォルシュは、土佐開成館長崎商会時代の岩崎彌太郎との交流もあり、「三菱史料館」で保管する岩崎彌太郎の現存最古のビジネス・レターは、慶応4年(1868年)、ウォルシュ商会との昆布の取引について、大村屋正蔵に確認したもの。
兄のトーマス(Thomas Walsh)は遅れて来日、長崎に見切りをつけ、横浜や神戸に商館(横浜・神戸ともにアメリカ人居留地一号館)を開き、ウォルシュ兄弟としてウォルシュ商会(Walsh and Company)を運営しています。
明治4年、岩崎彌太郎は、神戸の商館にジョン・G・ウォルシュを訪ね、弟の岩崎彌之助の米国留学を依頼し、ニューヨーク留学を実現させています。
三菱財閥のグローバル化と発展にジョン・G・ウォルシュは多大な貢献をしているのです。
東山手十二番館(旧居留地私学歴史資料館) | |
名称 | 東山手十二番館(旧居留地私学歴史資料館)/ひがしやまてじゅうにばんかん(きゅうきょりゅうちしがくれきししりょうかん) |
所在地 | 長崎県長崎市東山手町3-7 |
関連HP | 長崎市公式観光サイト |
電車・バスで | 路面電車(長崎電気軌道)大浦海岸通り電停から徒歩7分。メディカルセンター電停から徒歩8分 |
ドライブで | 長崎自動車道長崎ICから約4km |
駐車場 | 市営松が枝町第2駐車場(94台/有料)など周辺の有料駐車場を利用 |
問い合わせ | 東山手十二番館 TEL:095-827-2422 |
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