若き日の渋沢栄一に大いに影響を与えた尾高惇忠(おだかあつただ)は、渋沢栄一の従兄弟(いとこ)で、義理の兄。富岡製糸場の初代場長をも務めています。深谷市には生家が現存し、尾高惇忠、渋沢栄一らが高崎城乗っ取り計画を謀議したと伝わる部屋が2階に残されています(非公開)。
尾高惇忠は渋沢栄一に四書五経、『日本外史』を教授!
尾高惇忠は、当時岡部藩領だった武蔵国榛沢郡下手計村(現・埼玉県深谷市下手計)に文政13年7月27日(1830年9月13日)に、名主・尾高勝五郎保孝の家に生まれ、学問にも秀で、17歳の頃から近郷の子弟たちを集めて漢籍などの学問を教えています。
尾高惇忠の母・やへが渋沢栄一の父・渋沢市郎右衛門の姉ということで、武蔵国榛沢郡血洗島村(現・埼玉県深谷市血洗島)に生まれ、10歳年下の渋沢栄一は、7歳の時にはすでに尾高惇忠の元に通って、論語』、『大学』、『中庸』、『孟子』の四書、『易経』、『詩経』、『書経』、『礼記』、『春秋』の五経、頼山陽が著した『日本外史』などを学んでいます。
さらに渋沢栄一は、安政5年(1858年)、18歳の時、尾高惇忠の妹・尾高千代と結婚しているので、惇忠は義理の兄という関係でもあるのです。
渋沢栄一の号「青淵」(せいえん=東京・王子の飛鳥山にある旧渋沢邸に青淵文庫が現存)も尾高惇忠から。
明治19年に結成された渋沢青淵記念財団竜門社(渋沢邸の書生部屋に寄寓していた青年たちが、互いに勉学に努め、成果を発表する会/現・渋沢栄一記念財団)の竜門という名も、指導に当たった尾高惇忠が鯉が滝を登って竜になるという中国の故事に因んで名付けたものです。
尾高惇忠は幕末には彰義隊に参加し、飯能戦争で官軍と戦い、さらに江戸で榎本武揚(えのもとたけあき)率いる旧幕府艦隊に合流して箱館まで転戦していますが、戦場を抜けて故郷に戻っています。
明治維新後、官営富岡製糸場の初代の工場長となるのは、大蔵省官僚となった渋沢栄一の縁。
明治10年には渋沢栄一により創設された日本最古の銀行である第一国立銀行の盛岡支店の支配人に転身し、さらに仙台支店の支配人も務めています。
明治34年1月2日、東京市深川区福住町(現・東京都江東区福住)の渋沢栄一別邸で死去。
墓は下手計地内の尾高家墓地にあります。
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
最新情報をお届けします
Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!
Follow @tabi_mag