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熊野磨崖仏

熊野磨崖仏

大分県豊後高田市、中世の荘園風景が残る田染平野にある今熊野山胎蔵寺(いまくまのさんたいぞうじ/六郷満山65ヶ寺のひとつ)から 旧鎮守・熊野神社(熊野権現)へ至る300mの山道と鬼が一夜で築いたという伝説の石段を上った左手の岩盤に彫られたのが熊野磨崖仏。藤原末期の作と推定され国の重要文化財に指定されています。

国内最古にして最大級の磨崖仏

この鬼が築いたと伝わる自然石の石段の先に磨崖仏が!

今熊野山胎蔵寺は、峯入りの荒行(行程150km、10日間に及ぶ荒行)出発点で、昔は明王院の徒八坊があり、修行僧や修験者を多く抱え、熊野権現(明治の神仏分離で熊野神社に)を管理する別当でした。

向かって右手にある高さ6.8mの大日如来像は、高さ8mほどの龕(がん)のなかに鎮座しています。
大日如来の半立像の左手にあるのが不動明王像。
高さはやはり8mほどで、大日如来像同様に藤原末期の作(平安時代末期)と推定されともに国の重要文化財に指定されています。
不動明王像によくある忿怒(ふんぬ)の相ではなく慈悲の表情をしていることに特徴が。
両脇に脇童子、男神像が刻まれていますが風食が激しくその像容は定かでありません。

日本遺産 鬼が仏になった里「くにさき」

瀬戸内海を渡るヤマト王権の人々にとって、国東半島は異界との境界であり、まさに「最果ての地」の象徴でした。
しかも両子山火山群の浮世離れした山並み。
それで、国東は鬼の住処(すみか)という畏怖(いふ)、伝説が生まれたのです。
その後、仏教伝来とともに、「六郷満山」と呼ばれる仏の世界が築かれます。

平安時代になって密教文化が国東半島にもたらされると、国東半島の鬼は不動明王に重ねられるようになります。
鬼が手にする剣は、不動明王の宝剣と同じで、しかも災厄を払う鬼の松明の炎は、まさしく煩悩を焼き尽くす不動明王の火焔光背に等しかったのです。
こうして鬼のパワーは、不動明王の法力へと変わっていきました。

国東半島の不動明王が憤怒の顔でなく、柔和な表情をしているのも、神と仏が入り交ざった信仰から。
熊野磨崖仏でも、優しい顔の不動明王は、そんな国東半島の歴史を秘めて、微笑んでいるのです。

今熊野山胎蔵寺、熊野磨崖仏はともに日本遺産「鬼が仏になった里『くにさき』」の構成資産になっています。

熊野磨崖仏
名称 熊野磨崖仏/くまのまがいぶつ
所在地 大分県豊後高田市田染平野2546-3
関連HP 豊後高田市公式観光サイト
電車・バスで JR宇佐駅からタクシーで25分
ドライブで 大分自動車道大分農業文化公園ICから約15km
駐車場 20台/無料
問い合わせ 熊野磨崖仏案内所 TEL:0978-26-2070
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

田染荘

国東半島(くにさきはんとう)の南西部、大分県豊後高田市の田染盆地(たしぶぼんち)にあるのが、中世の荘園、田染荘(たしぶのしょう)。時代とともに景観を変えることが多い現代にあって、地名、地割、水路が、中世と変わぬ状態で今もほぼ保たれており、「

富貴寺

国東半島(くにさきはんとう)に点在する六郷満山(ろくごうまんざん)のひとつで、養老2年(718年)、仁聞(にんもん)開基と伝わる天台宗の古刹が豊後高田市の富貴寺(ふきじ)。大堂(本堂)は、宇治平等院鳳凰堂(京都府)、平泉中尊寺金色堂(岩手県

鍋山磨崖仏

大分空港と豊後高田市を結ぶ大分県道34号(豊後高田安岐線)沿いにある磨崖仏が鍋山磨崖仏。道から80段の石段を上った鍋山中腹の岩壁に不動明王・矜羯羅童子(こんがらどうじ)・制多迦童子 (せいたかどうじ)からなる不動三尊立像が彫られています。制

元宮磨崖仏

大分県豊後高田市の田染真中地区にあり、元宮八幡社の境内北側の岩壁に造られた、龕(がん)のなかに彫られた磨崖仏が元宮磨崖仏。向って右から毘沙門天 、矜羯羅童子(こんがらどうじ)、不動明王、持国天(じこくてん) 、地蔵菩薩の五躯(ごく)の立像で

堂の迫磨崖仏

大分県豊後高田市にある応暦寺(おうれきじ)。国東半島(くにさきはんとう)に点在する寺院群・六郷満山(ろくごうまんざん)中山本寺のひとつです。その本堂左横から奥の院に続く山道を250mほど上った先の岩壁にある磨崖仏が、県指定の有形文化財である

 

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