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生田門

生田門

大分県中津市三ノ丁、中津城下・三の丸跡にある江戸時代の門が、生田門(しょうだもん)。奥平中津藩家老・生田家の門です。福沢諭吉の強い助言で、明治4年11月、中津市学校が開校した際には校門として使われ、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」で知られる『学問のすゝめ』誕生の地にもなっています。

福沢諭吉『学問のすゝめ』は、ここで生まれた!

江戸時代には三の丸には藩主の一族や家老などの屋敷が建ち並んだ地で、とくに1800石取りの家老・生田家は「大手屋敷」、隣接する2600石取りの奥平図書(おくだいらずしょ)の「中の屋敷」はその中核的な存在になっていました。
現在は「大手屋敷」と「中の屋敷」の一部が中津市立南部小学校の敷地となっていますが、もともとは福沢諭吉が旧中津藩藩主・奥平昌邁(おくだいらまさゆき=版籍奉還後に中津藩知事)に必要性を説き、西日本有数の英学校である中津市学校が開校したもの。
奥平昌邁は、毎年1000石を出資し、運営に携わり、福沢諭吉は、学問の必要性を示すために記した小冊子を制作。
これが「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」で有名な『学問のすゝめ』のルーツで、開校翌年の明治5年2月、『学問のすゝめ』(『學問ノスヽメ』)初編が出版されています。
つまり、『学問のすゝめ』は、中津の青少年に学問の重要性を説くために記された指針だったのです。

中津市学校の組織づくりには福沢諭吉、小幡篤次郎(おばたとくじろう=元中津藩士、江戸で福澤の慶應義塾の塾長、幕府の開成所で英学教授手伝)などがかかわり、学校の規則はすべて慶應義塾の規則に従って定められ、教員は主に慶應義塾の中津出身者が派遣されました。
ちなみに、福沢諭吉自身は、天保5年(1834年)に大坂(現・大阪)中津藩邸で生まれ、慶應義塾も安政4年(1858年)、築地鉄砲洲の中津藩中屋敷で開いた蘭学塾が起源で、中津藩とは深い関わりがあります。

明治6年〜明治9年には中津市学校の生徒数は600名を数え、西洋風の文化・生活様式の出発点となり、中津の近代化はこの中津市学校を中心に進んだといっても過言ではありません。
その後、西南戦争の影響もあって、生徒数が減り、明治16年3月に閉校しました。
明治43年4月1日、南部小学校が開校し、その校門として門は活用され、昭和47年、校舎改築の際、道を挟んだ練心館の門として現在地に移築され、昭和63年、老朽化のため解体、平成12年に移築復元。
復元された場所は、生田家の「大手屋敷」ではなく、奥平図書の「中の屋敷」の場所です(往時には現存する大手門の石垣西端の西20mの位置に、道路に沿って建っていました)。
門の周囲の塀は、古写真を参考にして復元されたもの。

生田門
名称 生田門/しょうだもん
所在地 大分県中津市1309(三ノ丁)中津市立南部小学校
電車・バスで JR中津駅から徒歩15分
ドライブで 宇佐別府道路宇佐ICから約17.8km
駐車場 中津公園駐車場(50台/無料)
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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