大分県竹田市竹田、岡城の二の丸跡に立つのが、滝廉太郎銅像。作曲家・滝廉太郎(瀧廉太郎)は、土井晩翠作詞の『荒城の月』の作曲で有名。旧制中学校唱歌の懸賞募集の作品で、岡城をイメージして作曲したといわれ、銅像は、滝廉太郎と同窓で4歳年下の朝倉文夫(あさくらふみお)の制作。
同窓の朝倉文夫が銅像を制作
明治12年、旧日出藩士・瀧吉弘の長男として東京で生誕。
瀧家は豊後国日出藩の家老職を代々務めた名家で、父・瀧吉弘は廃藩置県後、内務官僚となって東京で暮らし、廉太郎が生まれますが、その後、富山など各地を転々とした後、故郷の大分市に戻り、さらに父の転勤で、12歳から14歳までを竹田で過ごしています。
竹田暮らしの後、明治27年、東京音楽学校(現・東京芸術大学)に入学。
明治31年に本科を卒業し、研究科で学んでいた時代に、『荒城の月』の懸賞に応募し、見事作曲を担ったのです。
まさに無名時代の作品で、同じ中学校唱歌の『箱根八里』、幼稚園唱歌『鳩ぽっぽ』、『雪やこんこん』、『お正月』などとともに滝廉太郎の代表的な唱歌になっています。
銅像が制作されたのは、戦後の昭和25年で、昭和33年に建立。
竹田市では昭和22年から瀧廉太郎を顕彰する『瀧廉太郎記念音楽祭』が開催されていました。
同じ銅像が東京・上野の旧東京音楽奏楽堂前、大分市の瀧廉太郎終焉の地、瀧家ゆかりの地・日出町の二の丸館前にも設置されています。
朝倉文夫の記した碑文
瀧君とは竹田高等小學校の同窓であった。
君は十五才、自分は十一才、この二つに教室は丁度向かい合っていたので、僅かに一年間ではあったが印象は割合に深い。
しかしそれから君のなくなるまでの 十年間は、ほとんど何も思ひ出せないのに、十一才乃印象を土苔にして君の像を作ろうというのである。
多少の不安を抱かぬでもなかったが、製作に着手してみると、印象はだんだん冴えて来て、古い記憶 は、再び新しくなり、追憶は次から次えと蘇る。
學校の式場でオルガンの弾奏を許されていたのも君、裏山で尺八を吹いて全校の生徒を感激させたのも君、それは稲葉川の川瀬に和した忘れる事の出来ない韻律であった。
そして八年後には一世を劃した名曲「四季」「箱根山」「荒城の月」に不朽の名を留めたことなど、美しい思い出の中に楽しく仕事を終わった。
昭和二十五年八月十五日
朝倉文夫識
今自分は五十七年前の童心に立ちかえり
幽懐つくるところをしらず
君を塐(つく)れば笛の音や将に月を呼ぶ
岡城・滝廉太郎銅像 | |
名称 | 岡城・滝廉太郎銅像/おかじょう・たきれんたろうどうぞう |
所在地 | 大分県竹田市竹田 |
関連HP | 竹田市岡城跡公式ホームページ |
電車・バスで | JR豊後竹田駅から徒歩20分 |
ドライブで | 東九州自動車道大分光吉ICから約41km |
駐車場 | 200台/無料 |
問い合わせ | 竹田市教育委員会 TEL:0974-63-1111/FAX:0974-63-2373 |
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