江戸時代には大多喜藩の藩庁だったのが、千葉県夷隅郡大多喜町にある平山城の大多喜城。千葉県民は天守風の建物が大好きなようで、大多喜城にも立派な天守が建っています。大多喜城の天守は、天保13年(1842年)の火災で焼失したとされますが、天守は存在しなかったという説もあるのです。
天守の存在を疑問視する専門家も

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏滅亡後、関八州に移封された徳川家康は、上総国(かずさのくに)が、徳川三傑、徳川四天王にも数えられる本多忠勝(ほんだただかつ)の領地としています。
本多忠勝を領主(藩主)としたことからも、上総国の重要性がよくわかりますが(安房国の里見氏に対する備え)、本多忠勝は天正19年(1591年)頃、万喜城(現・いすみ市)から大多喜城に居城を移し、城郭を整備したと推測されています。
本多忠勝は、大多喜城を中世的な城郭から3層4階の天守を有する近世城郭へと大改修していますが、関ヶ原合戦後、西への守りとして桑名へ移り、大多喜城へは、次男の本多忠朝(ほんだただとも)を配しています。
その後も、青山家、阿部家、稲垣家、松平(大河内)家と譜代大名の居城として機能しましたが、藩政は山麓の城館で執り行なわれ、山上の天守は無用の長物に成り果てていました。
安房国の里見氏も慶長19年(1614年)、里見忠義(さとみただよし)の時代に改易となり(安房国を没収)、伯耆国・倉吉(鳥取県倉吉市)に封じられた結果、館山城は破却され、南からの驚異も失われたのです。
その結果、天守は荒廃し、記録に残る天保13年(1842年)の焼失も、「荒廃していた天守の焼失」とも推測できるのです。
天守は、千葉県立中央博物館大多喜城分館として機能
現在の天守は、コンクリート造り、層塔型3重3階の模擬天守。
昭和50年、天保6年(1835年)の図面、文政10年(1827年)の写し絵図などを参考に、建築史家・藤岡通夫(ふじおかみちお)の設計で、千葉県立総南博物館(現・千葉県立中央博物館大多喜城分館)として建てたもの。
近世当時の正確な天守の絵図は存在しないため、あくまで平均的な江戸時代の「多分、こんな感じだろう」的な天守ということになります。
江戸時代初期の寛文11年(1672年)、阿部正春が入城の際には幕府から大多喜城は城跡になってしまっているので再建するようにとの命を受けています。
しかし、石高1万6000石なので、立派な天守を再建したとは考えづらく、天守はなかったという説の裏付けにもなっていて、今も天守の姿はもちろん、存在すら疑われることに。
天守跡の発掘調査で焼けた瓦も出土していて、天守の存在説、焼失説を後押ししています。
天守があったならその形状はともかく再建天守といえるのかもしれませんが、天守がなかったなら、あくまでも模擬天守という存在に。
外観は、江戸時代の天守的にしたという点では、限りなく模擬天守(観光天守)に近い存在です。
内部は博物館として機能していますが、老朽化のため施設改修を実施、休館中です。
| 確実に誤解を生む! まさかの天守閣(17)大多喜城|千葉県 | |
| 名称 | 大多喜城/おおたきじょう |
| 所在地 | 千葉県夷隅郡大多喜町大多喜481 |
| 電車・バスで | いすみ鉄道大多喜駅から徒歩15分 |
| ドライブで | 館山自動車道姉崎袖ケ浦ICから約34.4km、または、市原ICから約33km |
| 駐車場 | 町営城下駐車場(90台)/無料、大多喜城へ徒歩5分 |
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