東インド艦隊司令長官のペリー提督は、太平洋航路や捕鯨船の補給地確保もあって徳川幕府に開国を迫るため。嘉永6年(1853年)、フィルモア大統領の親書を携え来航、そしてその翌年に日米和親条約を締結、下田、箱館を開港させています。その間に上陸したのは日本国内6ヶ所にも及んでいます。
沖縄県那覇市・泊港|1853年6月6日
場所:沖縄県那覇市泊
ペリー提督上陸年月日:嘉永6年4月30日(1853年6月6日)/安政元年6月17日(1854年7月11日)に琉米修好条約(正式名は「亜米利加合衆国琉球王国政府トノ定約」)の締結時にも上陸
上陸の理由:捕鯨船の寄港、東アジアへの航路の確保が重要な課題で、琉球も重要な位置にあったため、江戸湾・浦賀来航に先駆け、琉球王府にフィルモア大統領の親書を届けています
記念碑など:泊外人墓地(泊港北岸)にペリー提督上陸記念碑
東京都父島・二見港|1853年6月14日
場所:東京都小笠原村父島
ペリー提督上陸年月日:嘉永6年5月8日(1853年6月14日)
上陸の理由:領有が決まっていない小笠原諸島を探検、捕鯨船、太平洋航路の補給地とするため、さらにはアメリカの領土と宣言する意向があったため(領有の宣言はイギリスなどの反対でうやむやに)
いったん琉球に戻ってから浦賀に向かっています
記念碑など:二見港の大神山公園コミュニティ広場にペリー提督来航記念碑
神奈川県横須賀市・久里浜|1853年7月14日
場所:神奈川県横須賀市久里浜7丁目
ペリー提督上陸年月日:嘉永6年6月9日(1853年7月14日)
上陸の理由:江戸幕府にフィルモア大統領の親書を手渡すため
天然の良港で浦賀奉行所のある浦賀湊が入港の希望地でしたが、江戸湾防備に当たる川越藩、彦根藩、会津藩、忍藩から守備に不向きと強い反対を受け、結果久里浜に上陸
浦賀奉行所も久里浜に出向いて対応しています
記念碑など:ペリー公園が整備され、ペリー上陸記念碑、ペリー記念館があります
神奈川県横浜市・横浜開港資料館|1854年3月31日
場所:神奈川県横浜市中区
ペリー提督上陸年月日:嘉永7年3月3日(1854年3月31日)
上陸の理由:嘉永7年1月16日(1854年2月13日)、ペリーは再び浦賀に来航、武力を背景に開国を迫り、日米和親条約(神奈川条約)の締結にこぎつけ、武蔵国横浜村で条約を締結、、下田・箱館(はこだて)2港の開港、漂流民の救助と撫恤(ぶじゅつ=慈しむこと)、開港場での必需品提供と外人遊歩区域の設定、アメリカへの最恵国待遇、調印から18ヶ月以後における下田への外交官派遣の許可など12条が定められます
記念碑など:日米和親条約を締結した地に横浜開港資料館が建ち、資料館前の園地に日米和親条約締結の地碑が
静岡県下田市・下田港|1854年4月21日
場所:静岡県下田市3丁目
ペリー提督上陸年月日:嘉永7年3月24日(1854年4月21日)/非公式に上陸し、下田奉行が了仙寺で饗応
嘉永7年5月22日(1854年6月17日)に日米和親条約の細則を定めた全13ヶ条からなる下田条約を締結
上陸の理由:日米和親条約締結後、ペリーはすぐに下田に向かい、開港地の状況を視察、70日にも渡って滞在(そのうち1ヶ月は翌年3月開港となる箱館の調査)
記念碑など:ペリー上陸記念公園にペリー艦隊来航記念碑が立ち、下田条約締結のため了仙寺まで軍楽隊演奏に合わせ300人もの水兵がパレードした道がペリーロードとなっています
北海道函館市・函館港|1854年5月18日
場所:北海道函館市弁天町
ペリー提督上陸年月日:嘉永7年4月22日(1854年5月18日)
上陸の理由:開港地である箱館(現・函館)の視察に、ペリー艦隊の、旗艦・ポーハタン号(蒸気外輪フリゲート艦)、ミシシッピ号(蒸気外輪フリゲート艦)は、下田から箱館にわずか4日で箱館に到着(当時の箱館〜江戸間の太平洋航路は最速で20日ほど要していました)
沖ノ口役所が手狭だったため、弁天町の豪商・山田屋寿兵衛の屋敷を応接所として松前藩家老・松前勘解由(まつまえかげゆ)と会見を行なっています
記念碑など:対応した箱館奉行所があったのが現在の元町公園で、元町公園の下のペリー広場(旧市立函館病院跡)にはペリー提督来航記念碑(ペリー提督像)が立っています
ペリーが箱館(現在の函館)に来航した時に病死した2名のヴァンダリア号水兵を埋葬したことがルーツの函館外人墓地もあります
ペリー上陸地は、全国に6ヶ所も! | |
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