江戸を騒がせた「三大珍獣」とは!?

享保13年(1728年)に長崎・出島から江戸まで旅をし、将軍・徳川吉宗が観覧した「享保の象」、寛政10年(1798年)、品川沖に姿を見せた「寛政の鯨」、文政4年(1821年)にやはり長崎から江戸に運ばれ、江戸で多くの興行が行なわれた「文化の駱駝(らくだ)」が江戸を騒がせる大事件となった三大珍獣です。

享保の象

年代:享保13年6月13日(1728年7月19日)〜寛保2年12月13日(1743年1月8日)
世相と状況:江戸幕府の第8代将軍・徳川吉宗は鎖国政策の最中、海外の科学技術を導入する目的で、キリスト教に関連しない技術書の漢訳書の輸入制限を緩和、オランダ、清国の商人との交流を通じて、清国の商人に象の輸入を依頼。
内容:安南(ベトナム)産のオスのアジアゾウ2頭が長崎・出島に到着後、唐人屋敷で同行の安南人の手により飼育され、越冬(2頭のうちメスの象は、享保13年9月11日に死亡)。
享保14年3月13日(1729年4月10日)、江戸に向けて長崎を出立、輸送手段がなかったため、陸路を自らの脚で74日間かけて移動(関門海峡のみ渡船、370里・1480km)、途中、京都では、中御門天皇に天覧、そして箱根越えでは象が力尽き、温泉まんじゅうを食べさせて回復という逸話も。
将軍謁見とその後:江戸では浜御殿(現・浜離宮恩賜庭園)で飼育され、桜田門から江戸城に入城し、将軍・吉宗に対面
12年ほど浜御殿で飼育された後、維持費がかかるため象の払い下げが行なわれ、中野村(現在の東京都中野区)の百姓源助と柏木村の弥兵衛が払い下げを受けたところ、庶民は象見物に殺到、象に関する商品(象グッズ)も飛ぶように売れたとのこと。
象は中野村で病死。
宝仙寺(中野不動尊/東京都中野区)には「象ブーム」を起こした象の骨と牙『馴象之枯骨』が現存

宝仙寺(中野不動尊)

宝仙寺(中野不動尊)

東京都中野区中央2丁目、東京メトロ・中野坂上駅の北西にある真言宗豊山派の寺が、宝仙寺。関東三十六不動尊霊場15番札所で、中野不動尊とも称されています。平安時代の寛治年間(1087年~1094年)、源義家(みなもとのよしいえ)によって創建され

寛政の鯨

年代:寛政10年5月1日(1798年6月14日)〜
世相と状況:前の晩からの暴風雨によって、1頭の大きな鯨が、品川沖にまぎれこみました。
当時の東京湾では、安房勝山で醍醐新兵衛が組織した鯨組の漁師たちによって夏場に捕鯨が行なわれていました(勝山沖にやって来るツチクジラを捕獲)。
肉は干した後「くじらのタレ」(くじら肉をたれに漬け込んで干した千葉県南房総の郷土料理)に加工して保存食に。
内容:日頃はタイやカレイを採って暮らしていた江戸・品川の漁師にとって、鯨を見るのは初めて。
それでも品川沖にやって来た鯨を、みすみす逃したとあっては、品川漁師の恥とばかり、漁師総出で小舟で鯨を取り囲み、船ばたをたたき、ホラ貝を吹き鳴らし、さらに大声をあげて、鯨を天王洲へ追い込んだところ、洲を乗り越えようとした鯨は岸から3町(300m)ほどの浅瀬に乗り上げました。
長さが9間(16m)、高さ7尺(2m)で、品川の漁師が鯨を捕まえた話は江戸中に知れ渡りました
近隣からも、鯨を見ようという人々が押し寄せ、小舟を借りての見物客で溢れかえり、漁師はその代金で懐が潤ったそうです(やはり土産の鯨グッズが売り出されています)。
将軍謁見とその後:第11代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)も見学を希望し、5月3日、漁師たちは鯨に紐をつけて浜御殿(現・浜離宮恩賜公園)沖に運び、将軍が謁見、その後、品川沖に戻され、「将軍様御上覧の鯨」としてさらに人気が高まりますが、腐敗が進んだため、解体され、骨は利田神社の境内に埋められて鯨塚(現存)が築かれました。
滝沢馬琴『鯨魚尺品革羽織』(くじらざししながわばおり)、十返舎一九の『大鯨豊年貢』(たいけい ほうねんのみつぎ).にもその顛末が描かれています。
嘉永4(1851年)にも品川沖に鯨が現れ、勝川春亭が『品川沖之鯨 高輪ヨリ見ル図』に描いていますが、こちらの絵は誇張されています。

利田神社・鯨塚

利田神社・鯨塚

東京都品川区東品川1丁目、利田神社(かがたじんじゃ)の境内の一角に築かれているのが、鯨塚。江戸湾に現れ、天王洲へと追い込んで捕獲、東京では唯一のクジラを埋葬した塚。江戸を驚かせた三大動物の一つ「寛政の鯨」の骨を埋めた上に立てられた供養塔です

文化の駱駝

年代:文政7年(1824年)8月、天保4年(1833年)春・8月
世相と状況:江戸時代に駱駝(ラクダ)が日本に来たのは、正保3年(1646年) 、1803年(享和3年) 、文政7年(1824年)の3回。
うち正保3年(1646年) はオランダ船を偽ったアメリカ船だったのでの幕府は受け取らず、将軍が見物したのは2回、とくに3回目は第11代将軍・徳川家斉の治世となる文化文政年間で、江戸で町民文化が花開いた幕末、駱駝も興行的に庶民の見世物になりました。
内容:アラビア産のひとこぶラクダは、牡と牝のつがいでオランダ船により長崎・出島に上陸。
幕府への献上が申請されたが却下され、しばらくオランダ商館で飼育、その後通詞へ贈呈され、さらに商人、見世物興行師の手に渡り、九州、四国、和歌山、大坂、京都と各地を巡業しながら、中山道を経て江戸に着いたのが3年後の1824(文政7)年8月、両国広小路で見世物が開かれ、紀州藩主も見学。
さらに全国を巡業後、天保4年(1833年)春と8月にも江戸にやってきましたが将軍は見学していません。
各地で現在の広告を思わせる刷り物、書物が数多く出されて話題を集め、駱駝は道中も終始一緒で仲睦まじく、見物するだけで夫婦和合のご利益もあるとされました。

江戸を騒がせた「三大珍獣」とは!?
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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