日本の名字ランキング4位の田中さんは全国に133万人ほど暮らしていますが、とくに西日本に多いのが特長。近畿地方、九州・沖縄地方では1位、中国・四国地方でも2位を占め、その分布を見ると、山陰にも多く、東海地方から関東地方に多い鈴木さんとはまさに対照的。
田中さんのルーツは滋賀県高島市!
もともと田中さんは田んぼに囲まれたことを示す地形姓。
つまりは、山岳地帯や森林地帯、そして海岸の漁師町では生まれない名前です。
日本海側では新潟・富山県境の親不知子不知(おやしらずこしらず)、太平洋側は関ヶ原や木曽川あたりで境となり、それより西に多いのが田中さんです。
そんな田中さんなら、まずは訪れたいのが滋賀県の田中神社。
滋賀県高島市安曇川田中郷の産土神(うぶすながみ)である田中神社は、五穀豊穣の守護神であり、俗に田植神または五月神と尊称され、古代より信仰を集めていました。
大きい鳥居が目立ち、社域も広く雄壮な雰囲気の田中神社は、孝元天皇(紀元前206年)のとき、田中神が晴天の祈願をしたというとんでもなく古い由緒を有する古社(ただし時代としては弥生時代になってしまいます)。
北側丘陵一帯の泰山寺野(たいさんじの)台地の東端部には、6世紀築造という田中神社古墳群も発見され、継体天皇の父・彦主人王(ひこうしおう)の陵墓参考地として宮内庁が管理しています。
近江国高島郡田中村を発祥の地とする田中さんは橘氏(たちばなうじ)の子孫で、戦国時代の武将・田中吉政(たなかよしまさ)がつとに有名。
当初、羽柴秀次(のちの豊臣秀次)の宿老として活躍した田中吉政は、近江八幡、さらには三河・岡崎の城下町づくりにも貢献しています(東海道を岡崎城下町の中心を通るように変更したのも田中吉政です)。
関ヶ原合戦で石田三成を捕縛するという大きな手柄を立て、筑後国・柳川32万石を与えられ、国持ち大名に出世。
その一族は旗本や藩士として存続、田中さんの中で唯一大名に列した家系が、この近江出身の田中さんなのです。
田中神社の裏山一帯の泰山寺野台地(たいざんじのだいち)先端部には田中王塚(たなかおおつか)を中心に全部で44基の古墳からなる田中古墳群があり、まさに田中さんのルーツ。
田んぼの中の田中さんは、近江の気候風土で生まれた名前
近江(滋賀県)でもうひとり有名な田中さんが、田中孫作。
こちらは戦国時代、掛川城主、そして高知城主になった山内一豊・千代夫人(『功名が辻』で有名)の忠臣。
石田三成が家康追討の兵をあげた際、人質となっても自分のことは気にせず家康に尽くしてくださいという千代夫人(見性院)の密書を下野国(栃木県)宇都宮の一豊の陣に届けたのがこの田中孫作です。
関ヶ原合戦の際には、主君・山内一豊の命で西軍の小早川秀秋の陣を訪れ、東軍につくように説得、その甲斐あって東軍は勝利しています。
山内家が大々名に出世するのに貢献した田中孫作の出身地は、高溝村(米原市高溝)。
田中孫作屋敷跡の碑が残され、湖国・近江の田中さんのルーツのひとつになっています。
縄文時代中期から後期の冷涼な時代に大規模な集落が存続し、弥生時代前期から稲作が行なわれた琵琶湖周辺(滋賀県最古の水田遺跡は、守山市の服部遺跡で弥生時代前期のもの)。
琵琶湖という恵まれた水資源があり、湖の周囲に平野が広がり肥沃な大地があったことで、田んぼが築かれていったのです(平安時代を迎える頃には、近江国の水田面積は、全国でも指折りの広さにまで成長)。
田んぼの中の田中さんは、そうした近江の気候風土で生まれた名前だと推測できます。
田中さんは京都にもルーツがあるかもしれない
そんな田中さんですが、田中さんの発祥地は、京都市左京区田中の田中神社であるという説もあります。
京の田中郷(山城国愛宕郡田中村)とは、左京区の西部、高野川下流の川東一帯の名で、田中神社(創建は定かでありませんが平安時代の『日本三代実録』に田中神の名が記載)はその産土神として、住民の信仰を集めてきました。
ここが全国の田中さんの発祥地ともいわれているのです。
叡山電鉄叡山本線の駅名が田中駅でなく、あえて元田中駅(もとたなかえき)としているのも、一帯の田中のルーツという意味合いから。
有名な浄土宗の大本山・知恩寺(百萬遍知恩寺=平安時代前期に円仁が創建)も大字田中(現・田中門前町)です。
平安時代ころには文字通り一帯は田んぼの中で、京の都からも田中さんの名が生まれたことは容易に想像がつきます。
千利休も本名は田中与四郎! ルーツは群馬県に
田中神社は全国各地にかなりの数があり、どうやら、田中という地名と神社だけでは、田中さんの絶対的な発祥地であると、断定できそうにはありません。
それが地形姓・田中さんのルーツ探索の難しさです。
武家の田中氏も各地の地名に由来するだけ多流で、磐城、甲斐、下野、伊豆、美濃、近江、筑後、豊後、肥前など各地で誕生し活躍しているので、ますます田中姓誕生の地の特定は難解に。
ただ、田中さんが各地に広く分布した家系だけは少したどることができます。
例えば、上野国新田郡田中(現在の群馬県太田市新田上田中町・下田中町)の新田一族・里見氏の流れや、常陸国八条院系の田中庄の領主・田中氏の流れがその代表。
群馬県太田市新田上田中町にある長慶寺は田中館跡と伝えられますが、田中氏は里見義俊(里見氏の祖)の次男・田中義清(さとみよしきよ)が田中姓を名乗ったのが始まり。
里見氏流田中氏は、足利氏との合戦で越後、北九州、四国などに転戦、新田氏滅亡後は各地に散らばったといい、有名な茶人の千利休(田中与四郎)も新田一族里見氏の流れ。
千利休は和泉国・堺の屋号「魚屋」(ととや)という商家の生まれ。
父・田中与兵衛(たなかよひょうえ)は、田中義清の子孫と自称していたのです。
田中館跡に建つ長慶寺は、開基が田中義清、開山は慶弁とされ、利休ゆかりということになっています。
関東の田中さんなら、一度は訪ねる価値があるでしょう。
茨城県つくば市にも田中さんのルーツが
一方、常陸国田中庄(現在の茨城県つくば市田中)の領主・田中氏の流れは、やがて、江戸時代になると鉄・銅などを溶かし鍋や釜・梵鐘などを製造する鋳物師(いもじ)として日本各地へと移住していきます。
枚方市立旧田中家鋳物民俗資料館は、江戸時代に北河内で唯一、正式に営業を許可された鋳物師・田中家の鋳物工場と主屋を資料館として再生したものです。
日枝神社(つくば市田中1850)は、田中庄33郷の総鎮守。
貞観2年(860年)、近江の山王権現・日吉社、現在の日吉大社(ひよしたいしゃ)から分霊を勧請して創建したという古社で、やはり、近江とのつながりが。
田中庄は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての皇族で、鳥羽天皇第三皇女・八条院暲子(はちじょういんしょうし=終生未婚ですが以仁王などを養育)に伝領された土地。
往時の田中庄は現在のつくば市の大半とつくばみらい市の大半。
さらに筑西市の旧明野町、桜川市の旧真壁町にまたがる広大な地域で、常陸国田中庄だった時代には、一帯には荘園となった田んぼが広がっていたのだと推測できます。
ここにも、田んぼの中の田中さんの故郷が。
鳥取県では占有率はなんと2.46%と田中さんが多い!
田中さんの家紋は、それぞれ出自が違うため多彩。
代表紋は新田氏の家紋として知られ片喰(かたばみ)。
他に、木瓜(もっこう)、石畳、牡丹、左三つ巴、四つ目、蔦、杏葉(ぎょうよう)、輪鼓(りゅうご)、二引両、五三桐、鳳凰など。
前述の田中吉政は、一つ目結(めゆい)の家紋を用いたことから、先祖は佐々木氏と血縁関係があったと推測できます。
また、 田中角栄家の家紋は酒井さんと同じ剣片喰だとか。
田中さんが圧倒的に多い県は、鳥取県で占有率はなんと2.46%。
続いて佐賀県2.01%。
このほか、福井県、滋賀県、京都府、大阪府、兵庫県、島根県、福岡県、熊本県でTOPとなっています。
2位の県を見ても、長野県、和歌山県、奈良県、広島県、香川県、徳島県、山口県で、見事に糸魚川-静岡構造線の西側ということに。
地形姓では、東西文化を隔てるこのラインが実は居住地に大きな影響を与えているのかもしれません。
東日本では東京都の4位(1.14%)に入っているのが最高順位。
少なくとも田んぼがなければ、田中さんは生まれていない名前なので、弥生時代までの稲作の広がりが西日本中心だったことに影響されているのかもしれません。
取材・編集協力/札場靖人(家紋と姓名研究家)
田中さんのルーツを探せ! | |
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