江戸時代、諸大名に江戸と領地を往復させ、それぞれに一定期間住まわせたという制度が参勤交代(さんきんこうたい)。江戸からもっとも遠い大名は、南は鹿児島城が藩庁の薩摩藩、北は蝦夷地(北海道)松前城が藩庁の松前藩でした。そのうち薩摩藩は最大で片道2ヶ月、松前藩も40日を費やしました。
1000人以上の大行列が、最大2ヶ月を費やしての長旅

あまり知られていませんが、大名が領有する藩から江戸に赴くことを「参勤」、江戸から領地へ戻ることを「交代」と呼び、往復が参勤交代となっていました。
湯長谷藩の藩主・内藤政醇(ないとうまさあつ)の参勤交代を題材にした映画『超高速!参勤交代』(平成26年公開、主演・佐々木蔵之介、監督・本木克英)では、石高1万5000石の小藩に、参勤交代の出費がのしかかり、満足な大名行列ができないという姿を描いて話題になりました。
江戸時代の初めには諸大名は将軍のご機嫌伺いを兼ね、恭順の姿勢を示すために自発的に行なっていましたが、3代将軍・徳川家光の治世に、諸藩の出費を増大させるという目的もあって、1年ごとに江戸と領地を往復するという制度が定められました。
この制度によって、街道、宿場、海上交通(藩によっては藩主が乗船する御座船を所有するようになりました)なども整備され、江戸と地方の文化交流が促進されるという効果もありました。
東京と北陸新幹線で結ばれ、最短で2時間51分で到達する福井ですが、参勤交代では、北陸道で垂井に出て、中山道あるいは東海道を利用するルートで2週間も費やしていました。
福井藩ではおよそ1000人が藩主とともに旅し、享和3年(1803年)の記録では、およそ2000両、現在の貨幣価値に換算すると6000万円〜8000万円の出費となっていました。
最北の松前藩は、津軽海峡を越すため、まさに藩主とお供は命がけ。
盛大に見送られて出立したそうです。
参勤交代に要した日数は、早いときで26日、遅いときは40日もかかっています。
そんな諸藩を尻目に、もっとも日数と経費を要したのが、薩摩藩です。
江戸~鹿児島は、440里(1716km)もあり、江戸時代前期には瀬戸内海の舟運を利用することもありましたが、海路は天候不順などによって日程に遅延が生じるということで、後に山陽道経由の陸路に改めています。
薩摩藩の石高は琉球を含めて72万石と、金沢藩に次ぐ大大名でしたが、その実態は50万石相当で、参勤交代の軍役は表高(おもてだか)から起算され、大きな財政負担となっていました。
薩摩藩11代藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)の参勤交代の一例では、嘉永4年(1851年)、藩主の座に就き、同年5月、藩主として初めて薩摩にお国入り。
1年4ヶ月を国許で過ごし、嘉永5年8月23日、参勤のため薩摩を出立。
現在の九州新幹線、山陽新幹線、東海道新幹線のルートで江戸を目指し、江戸に到着したのは10月9日、つまりは47泊48日という大旅行になっていました。
薩摩藩は琉球を通じての交易で富を蓄えていましたが、幕府は木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)の分流工事を担わせるなどの過酷な使役も果たし、藩財政を困窮化させることを常に考えていました。
こうした苦しい参勤交代に耐えて明治維新まで島津家が藩主を務め、幕末の薩長連合による倒幕を迎えたのです。
参勤交代、もっとも日数を要した藩は、片道最大2ヶ月! | |
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