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銀山街道 温泉津沖泊道

温泉津沖泊道

石見銀山と温泉津・沖泊を結んだ銀山街道が温泉津沖泊道(ゆのつおきどまりどう)。毛利元就(もうりもとなり)が永禄5年(1562年)、石見国平定後に銀の積出港を手狭となった輌ヶ浦(仁摩)から温泉津に移してから輸送路となった街道。温泉津からは米などの物資が、石見銀山からは銀が運ばれました。

石見銀山と積出港・沖泊を結んだ銀山街道

松山の道標

毛利元就は、沖泊に銀の輸出港を移すと、水軍の居城となる城を2ヶ所設けて、水軍の基地にもしています。
温泉津沖泊道を整備したのは、毛利元就が当時、すでに銀の生産で注目されていた石見銀山を最重視したから。
毛利元就は、新たに開削した温泉津沖泊道を使って米を石見銀山へと運び、銀山経営者に販売。
その代金を銀(灰吹銀)に代えて、中国地方統一への軍用資金としたのです。

温泉津沖泊道は、沖泊(湊)~温泉津口番所~松山集落(温泉津焼の里)~松山道標~福光石の石切場~清水集落(金柄杓井戸・清水の石畳道)~西田集落(宿場町の家並み)~降路坂(矢滝城・矢筈城)~坂根口番所・大森代官所と通じていました。

このうち国道9号清水トンネルの上から松山集落へと下る場所にあるのが松山の道標。
福光石製の道標で、「右 銀山大森五□・いづも大や□□」(□□部分は欠落して判読不可)と刻まれています。
「いづも大や□□」は、出雲大社のこと。

大森代官が水の美味しさに感動して高価だった金属製の柄杓を奉納した金柄杓井戸から松山道標までの間が銀山街道の風情を強く残すいわゆる「松山古道」。
岩盤を階段状に削り込んだ坂道の先に敷石を敷いた石畳の道が残されています。

温泉津沖泊道は、中国自然歩道「石見銀山コース」にもなっているので、ハイキングも楽しめます(13.6km、銀山公園から沖泊への下りコースで所要5時間)。
クマが出没することもある山道なので、しっかりとした装備が必要。

温泉津沖泊道は、鞆ヶ浦道とともに鉱山と港をつなぐ街道として世界文化遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」の構成資産になっています。

温泉津沖泊道 コースタイム

銀山公園〜(徒歩40分)〜坂根口番所跡〜(徒歩50分)〜降路坂頂上〜(徒歩1時間10分)〜西田集落〜(徒歩1時間)〜金柄杓井戸〜(徒歩20分)〜松山の道標〜(徒歩50分)〜沖泊

銀山街道 温泉津沖泊道
名称 銀山街道 温泉津沖泊道/ぎんざんかいどう ゆのつおきはくどう
所在地 島根県大田市大森町〜温泉津町温泉津
関連HP 石見銀山ガイドの会公式ホームページ
問い合わせ 大田市観光協会 TEL:0854-88-9950/FAX:0854-88-9960
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

沖泊恵比須神社

石見銀山の銀の積出港として、さらに江戸時代には北前船の寄港地となった温泉津(ゆのつ)・沖泊にある、船乗りたちが信仰した氏神が恵比須神社。社伝によれば博多商人・神屋寿禎(かみやじゅてい)が石見銀山を発見した大永6年(1526年)の創建。本殿に

沖泊・鼻繰岩

永禄9年(1566年)、毛利元就(もうりもとなり)は、尼子氏を降し、石見国平定後に銀の積出港を輌ヶ浦(仁摩)から温泉津(ゆのつ)・沖泊に移しています。沖泊の湾岸には、凝灰岩の岩盤を加工して造られた鼻繰岩(はなぐりいわ)と呼ばれる係留遺構が数

世界文化遺産石見銀山周辺ゾーン・沖泊

温泉津(ゆのつ)から谷ふたつ北側にある天然の良港が沖泊。石見銀山から9km西に位置する湊(みなと)で、石見銀山の支配が毛利氏に移った16世紀後半、銀の積み出しと石見銀山への物資補給がこの沖泊の湊で行なわれました。温泉津沖泊道(銀山街道)とと

温泉津やきものの里やきもの館

宝永年間(1704年〜1708年)に3窯が開かれ、北前船の寄港した江戸時代に隆盛を極めた温泉津(ゆのつ/島根県大田市)の温泉津焼。温泉津やきものの里は温泉津焼の歴史資料を展示し、さらに創作室を設けて陶芸体験も楽しめる施設。15段全長30mと

 

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