中央の方形の墳丘(方墳)の両脇にさらに小型の方形の墳丘が付いている古墳のスタイルが、双方中方墳。よほど古墳に詳しい人でなければ聞いたこともないような名前ですが、実は国内にある双方中方墳は、三重県津市の明合古墳(あけあいこふん)、静岡県富士市の庚申塚古墳(こうしんづかこふん)のわずかに2基だけです。
三重県と静岡県に各1基という珍しい古墳
三重県津市にある明合古墳は、明合古墳群の主墳で、墳丘長81m。
主墳(方墳)部分だけでも1辺60mでもあり、方墳としても全国第10位の規模を誇りますが、墳丘の南北には造出を付し、双方中方墳と称されています。
5世紀前半頃(古墳時代中期前半)の築造と推定され、安濃川流域を支配した首長の墓で、伊勢湾を使って海上交易を活用していたと推測できます。
もうひとつの双方中方墳は、静岡県富士市にある墳丘長40mほどの庚申塚古墳で、墳丘の南端は東海道線によって削平されていますが、発掘調査は行なわれておらず、詳しいことはわかっていません。
庚申塚古墳は、浮島沼と駿河湾を隔てる田子の浦砂丘上に築かれており、被葬者は駿河湾の海上交通を掌握した首長と推測できます。
田子の浦砂丘は、富士川から運ばれた土砂が海流によって運ばれて造られた砂丘で、その丘陵を利用して、特異な形の古墳が築かれたということに。
私有地ということで墳丘への立ち入りはできません。
近くには古代の官道・東海道の柏原駅があったと推測され、官道の場所は確定していませんが、砂丘上ルートであれば、庚申塚古墳を見上げる形で通行したのかもしれません。
ヤマト王権の古墳の格付け(埋葬された被葬者の格付け)は、(1)大王墓に採用される前方後円墳、(2)そのアレンジである前方後方墳、(3)シンプルな円墳、そして(4)方墳という順序だといわれますが、前方後円墳が築かれなくなってからは大王墓に方墳も築かれていますから(推古天皇陵、用明天皇陵)、必ずしも被葬者の格付けともいえません。
古墳には時代とともに流行、地域性がありますが、海を隔てた東海地方(三重県、静岡県)にだけ、5世紀頃に双方中方墳が築かれたのは、なにか関係性があるのかもしれません。
全国にたった2基の珍しい古墳、双方中方墳とは!? | |
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