相撲発祥の地!? 相撲神社とは

相撲神社

「相撲発祥の地」という奈良県桜井市にあるのが相撲神社。『日本書紀』に當麻(たいま/現・奈良県葛城市)の当麻蹴速(たいまのけはや)が出雲国(現・島根県)の野見宿禰(のみのすくね)と垂仁天皇(すいにんてんのうの前で力比べを行なったとされるのが、相撲神社あたりで、境内には勝った野見宿禰を祀る祠もあります。

勝者の野見宿禰は、大王の殉死の風習に代わる埴輪の制を提案?

『日本書紀』によれば、「日本最初の天覧相撲」の結果は、野見宿禰が当麻蹴速の腋骨と腰を折って殺害するという壮絶なもの。
その結果、野見宿禰は、当麻蹴速の所領(現在の葛城市当麻一帯)を得たと記されています。
しかも相手の腰を折ったことから、賜った地も腰折田(こしおれだ)というオチが。
葛城市には腰折田公園があり、こちらを「相撲伝承発祥地」としています。

野見宿禰は、大王の殉死の風習に代わる埴輪の制を提案し(殉死の代わりに埴輪を墳丘に置く)、埴輪などを制作する土師氏(はじし)の祖ともいわれています。
ただし、これはヤマト王権に仕えた土師氏が後世に創作した話とも推測できます。

垂仁天皇は、実在したとすれば、3世紀後半〜4世紀前半のヤマト王権の大王(律令制以前、天皇という呼称がまだない時代です)。
大王の前で、出雲王権代表の野見宿禰と、ヤマト王権の当麻蹴速が技を競ったという可能性がありますが、当時の相撲は最後は蹴り合いになったと記されているので、格闘技といった感じ。

この当麻蹴速と野見宿禰の力比べが相撲節会(すまひのせちえ)と呼ばれる宮中の年中行事に発展、そのため相撲のルーツとなったと考えられるのです。

当麻蹴速と野見宿禰が力比べをした場所(『日本書紀』垂仁天皇7年条)は、日本書紀』には記載がなく、奈良県内でも実は葛城市と香芝市も「発祥の地」を掲げています。

桜井市の場合は、大正時代に大神神社(おおみわじんじゃ)の宮司が編纂した『大和志料』に纒向村(まきむくむら)の「かたやしき」という字の茶園が相撲の場の旧跡で、「かたや」(方屋)は土俵を意味する古語とする記述があります。

この「かたやしき」」が相撲神社の鎮座地ということで(ただし、古代の「かたや」は意味が違っているという研究者の指摘もあります)、昭和37年には日本相撲協会により、『顕彰大祭』が実施され、大鵬と柏戸の両横綱による土俵入りが奉納されています。
しかも近くには、『日本書紀』に「纒向に都し、珠城の宮という」と記される垂仁天皇の纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)跡伝承地もあるので、相撲神社の相撲発祥地説も、真実味が高まります。
ただし、桜井市観光協会も纒向珠城宮に関しても「伝承地といっても確かな根拠があるわけではありません」としており、あくまでも伝承という範疇ということに。

桜井市には出雲地区があり、地元の伝承では、野見宿禰は出雲国の出身ではなく、この出雲地区の出身だとされ、供養五輪塔や墓とされる塚も残されています。

いずれにしろ、大和国のどこかで相撲が発祥ということで、桜井市の纒向遺跡には卑弥呼の墓と目される箸墓古墳(はしはかこふん)があり、古代(3世紀)の都市遺構も出土していることから、邪馬台国からヤマト王権への移行の地とも推測でき、「相撲発祥の地」と宣言するのもうなづけます。

桜井市は、葛城市と香芝市で「大和まほろば相撲連絡協議会」を設立、力を合わせて相撲の発祥地であることをPR。
相撲のルーツを考えながら、大和路を旅するのも楽しいかもしれません。

相撲発祥の地!? 相撲神社とは
所在地 奈良県桜井市穴師
場所 相撲神社
関連HP 桜井市公式ホームページ
ドライブで 京奈和自動車道橿原北ICから約8km
駐車場 あり/無料
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
相撲発祥の地・腰折田公園

腰折田公園(相撲発祥伝承の地)

奈良県香芝市(かしばし)磯壁6丁目、腰折田公園として整備されるのが相撲発祥伝承の地。『日本書記』垂仁天皇7年7月7日の条に記される当麻蹴速(たいまのけはや)と出雲の国の野見宿禰(のみのすくね)が天皇の前で相撲とった場所と伝承され、相撲発祥の

纒向遺跡

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3世紀末の中国の史書『魏志倭人伝』に記される女王・卑弥呼が治める邪馬台国(やまたいこく)。九州説では佐賀県の吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)ではないかと推測する人が多いのですが、畿内説の有力な候補として浮上しているのが奈良県桜井市の纒向遺跡

 

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