日本三大奇襲に数えられるのは、武蔵国(埼玉県)での河越城の戦い(かわごえじょうのたたかい)、尾張国(愛知県)の桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)、安芸国(広島県)の厳島の戦い(いつくしまのたたかい)で、いずれも戦国時代。源平合戦の有名な一ノ谷の戦いは入っていません。
河越城の戦い|武蔵国(埼玉県)
奇襲戦の場所:武蔵国河越城(現・埼玉県川越市)
奇襲戦の時:天文15年4月20日(1546年5月19日)
関連する武将:北条氏綱(ほうじょううじつな=北条早雲の嫡男、後北条氏の2代目当主)VS上杉憲政(うえすぎのりまさ=室町幕府の関東管領)・上杉朝定・足利晴氏
合戦の意図:武蔵国を支配していた関東管領・上杉氏の拠点、河越城を後北条氏が奪取し、北関東へと勢力圏の拡大を目論んでいましたが、上杉氏はその河越城の奪還を目指していました
奇襲戦の内容:実態は史料が少なく明確ではありませんが、上杉憲政を中心とする関東諸大名連合軍は8万の大軍で河越城(北条氏康の義弟・北条綱成が3000の兵力で守備)を包囲
合戦の結末:北条氏康は本国・相模から8000の兵を率いて救援に駆けつけ、府中(現在の東京都府中市)に陣を張り、上杉勢の陣に奇襲攻撃を4回繰り返し、その後、上杉方を油断させておいて寝静まった闇夜に夜襲をかけます
上杉勢は混乱し、同士討ちも起こって逃走(関東公方・関東管領の権威は失墜)
合戦関連スポット:河越夜戦の碑が東明寺(激戦地だった場所/現・川越市志多町)に、河越城は江戸時代に近世城郭の川越城となり、遺構はありません
桶狭間の戦い|尾張国(愛知県)
奇襲戦の場所:尾張国知多郡桶狭間(現・愛知県名古屋市緑区、豊明市)
奇襲戦の時:永禄3年5月19日(1560年6月12日)
関連する武将:織田信長VS今川義元・松平元康(人質時代の徳川家康)
合戦の意図:京への上洛を目指す駿河・遠江の領主・今川義元が、上洛途中に尾張進出を目論んだ戦い(ただし上洛途中ではなく、尾張侵攻が目的だったとする説もあります)
奇襲戦の内容:2万5000人の大軍を率いた今川義元に、雨の中坂をかけ下った奇襲戦を展開したというのがこれまでの定説でしたが、近年の研究では奇襲というよりも正攻法で、今川義元の陣を狙ったとする説が有力に(織田信長が一時の形勢逆転を狙った攻撃が、偶然に敵本隊への正面突撃という説も)
合戦の結末:松平元康は人質ではなくなり、岡崎城に戻り、その後三河を平定、信長との同盟に
合戦関連スポット:実際の戦場がどこだったのかは定かではなく、豊明市に桶狭間古戦場伝説地、名古屋市緑区側に桶狭間古戦場公園があります
厳島の戦い|安芸国(広島県)
奇襲戦の場所:安芸国厳島(広島県廿日市市宮島)
奇襲戦の時:天文24年10月1日(1555年10月16日)
関連する武将:毛利元就(もうりもとなり=毛利氏の第12代当主)VS陶晴賢(すえはるかた=主君・大内義隆を討ち、大友晴英を当主に据えた大内氏の家臣)
合戦の意図:大内義隆を討ち、大内氏の実権を掌握した陶晴賢に対し、安芸国を掌握した毛利元就は反旗を翻して、水軍同士の戦いに突入
奇襲戦の内容:毛利軍は、第1軍(毛利本隊)、第2軍(小早川隊)、第3軍(村上水軍)に分かれて厳島上陸作戦を展開しますが、天候は暴風雨に。
毛利元就は「今日は吉日」であるとし、暴風雨こそ天の加護と密かに上陸し、奇襲攻撃を開始
合戦の結末:「陶、弘中は一矢も射ず、西山をさして引き下がった」(『棚守房顕覚書』)と記されるほど、陶晴賢勢は総崩れになり、陶晴賢も戦死
これをきっかけに大内氏と陶氏は弱体化していきます
合戦関連スポット:戦後、毛利元就は、厳島神社の大掛かりな改修に尽力
厳島神社・天神社は合戦に勝利した毛利元就の子・毛利隆元(もおりたかもと)が合戦の翌年に奉納
日本三大奇襲とは!? | |
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