東国に古墳文化が現れるのは畿内から少し遅れてというのが常識ですが、そんな定説を覆すのが静岡県沼津市にある高尾山古墳(たかおさんこふん)。沼津市教育委員会によれば、建造されたのは女王・卑弥呼(ひみこ)が邪馬台国(やまたいこく)を治めたという西暦250年頃。東日本では最古級の古墳です。
平成になって古墳、しかも最古級の古墳と判明!
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富士山の南、愛鷹山(あしたかやま)から南に延びる尾根の末端に築かれた古墳で、形状は、方墳に造り出し部分が付いた前方後方墳。
つまりは、前方後円墳の出現以前の形状で、3世紀の古墳だということがわかります。
後方部の高まりには高尾山穂見神社が、前方部には熊野神社が鎮座し、鎮守の森となっていたため、近年まで古墳とは認識されていませんでした。
都市計画道路の計画線上に位置していたことから、平成17年、平成19年に試掘調査が行なわれ、古墳出現期の古墳の可能性が生まれ、道路建設による神社の移転に先立って行なわれた東側隣地の発掘調査で、前方後方墳であることが確定。
神社移転後の平成20年度〜平成21年度、さらに追加調査が平成26年度に実施され、墳丘長62m(後方部長31m、前方部長31m、周溝幅8m~9m、南端部のみ2m前後)という規模の前方後方墳であることが明らかになったのです。
被葬者は女王・卑弥呼と同時代に生きた駿河の盟主
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尾根の末端をいったん削平し、黒色土を1mほど盛土し、その上に色調の異なる土を高さ4mになるまで交互に突き固めていることも判明。
後方部には掘り込んだ墓坑に木の棺を直接埋められていました(木棺直葬)。
主体部から青銅鏡1面や水銀朱が出土し、副葬品の大半を鉄槍(てつそう)2本、鉄鏃(てつぞく)32点などの武具が占めることから、経済力を有した武人が被葬者だろうと推測されています。
出土した土器や主体部から出土した金属製品などは3世紀なかば、西暦250年頃のもので、墳丘内部から出土する土器は西暦230年頃で、古墳が築かれたのは西暦250年頃かその少し前、いずれにしろ東日本では最古級の古墳であることが判明したのです。
『魏志倭人伝』には卑弥呼が魏(後漢滅亡後、中国三国時代の国)に使者を送り、239年、魏王から親魏倭王の称号を受けたとされていますが、高尾山古墳はまさに卑弥呼と同時代の豪族(首長)。
卑弥呼の墓ではないかと目される奈良県桜井市の箸墓古墳(はしはかこふん/前方後円墳)が西暦241年〜260年頃の築造なので、同時代の古墳ということになるのです。
邪馬台国は畿内説が有力になりつつありますが、畿内に連合王権が誕生した時代に、東日本でも弥生時代から古墳時代への移行が行なわれていたことが明らかとなり、これまでの常識を覆す大発見となったのです。
東海、北陸、近江からもたらされた「外来系土器」から、陸路、そして舟運を使って盛んに交易が行なわれていたこと、古代から沼津は、東日本の交易の中心的な存在だったことも推測できます。
駿河の盟主であろう被葬者は、邪馬台国、さらにはその後のヤマト王権とどうかかわったのか?
東日本の古代史を考える上で、重要な古墳であることは間違いありません。
沼津市は、道路建設を優先して高尾山古墳を取り壊す方針を決めていましたが、古墳の重要性を指摘されて白紙撤回。
国の史跡に指定され、頼重秀一市長も「歴史的に貴重な財産であり、学術的に価値のある重要な古墳であることが改めて認識された」とし、古墳の西側にトンネル、東側に橋を築くことで古墳は保存されることに。
邪馬台国の時代に築かれた「東日本最古級の古墳」が、沼津市に! | |
名称 | 高尾山古墳/たかおさんこふん |
所在地 | 静岡県沼津市 西熊堂347-4 |
関連HP | 沼津市公式ホームページ |
ドライブで | 東名高速道路沼津ICから約3km |
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