日本三景、誰が決めた!?

日本三景、誰が決めた!?

松島(宮城県)、天橋立(あまのはしだて・京都府)、宮島(広島県)が日本三景。ほかにも景勝地があるのに、いったい誰がこの日本三景を決めたのでしょう。実は、言い出したのは、江戸時代初期の林春斎(はやししゅんさい/林羅山の三男・林鵞峰)だとされています。

「世界三大」はかなり怪しいし、「日本三大」も通説が多数

「日本三大景観」を略して日本三景でしょうが、「日本三大」には、誰が決めたのかもわからないものが多数あります。
さらにいえば、「世界三大」なるものに日本国内の景観、人物などが入っているケースもありますが、実は、これも、海外ではまったく知られていなかったりするので、まずは、その辺の事情から。

たとえば、世界三大美人。
クレオパトラ(紀元前1世紀)、楊貴妃(ようきひ=中国唐代の皇妃/8世紀)とともに、突如として小野小町(おののこまち=平安時代の女流歌人/9世紀)が登場しますが、小野小町がクレオパトラ、楊貴妃と並ぶほど、世界的に有名な美人ならば、ハリウッド映画にもなっていそうです。

明治時代中頃〜大正時代、帝国列強に負けるなという世相を反映して、カエサル、ナポレオン、織田信長が世界三大英雄(これもかなり無理がありますが)、そして小野小町を世界三大美人に「仕立てた」のです。
実は、小野小町は生没年も定かでなく、美人だったことにも裏付けはありません。

単に「国風文化」を代表する文化人だった女性・小野小町を、ナショナリズムの高揚で、当時のトップ女優・松井須磨子が演じたクレオパトラ(大正3年3月、帝国劇場で上演)、そして日本人に馴染みのある楊貴妃とセットにしただけだと推測できるのです。
クレオパトラの名を冠した書物で確認できる日本最古のものは『クレオパトラ: 泰西艶史』で明治36年刊なので、明治時代において、日本国内ではほとんど無名の存在だったといえるでしょう。

元来、美人の概念は、国や時代によって多様であるはずです。
同様に、景観に対する感覚も時代によって微妙に異なるだろうし、江戸時代なら、上高地(長野県)などは猟師の世界で、小笠原(東京都)もまだ領土であることすら確定していません(明治9年に日本領土と確定)。

日本三景は江戸時代からの定説

日本三景・宮島
日本三景、安芸の宮島

日本三景に関しては、江戸時代前期の儒学者・林春斎が、寛永20年8月13日(1643年9月25日)に執筆した著書『日本国事跡考』の陸奥国(むつのくに)の部分で、「松島、此島之外有小島若干、殆如盆池月波之景、境致之佳、與丹後天橋立・安藝嚴嶋爲三處奇觀」(三處奇觀=三処の奇觀)と記したことが根拠となっています。

しかもここでは景観ではなく、奇觀(珍しい眺め)としており、「日本三景」という言葉の初出は、元禄2年1月28日(1689年3月19日)に天橋立を訪れた儒学者・貝原益軒(かいばらえきけん)が、『己巳紀行』(きしきこう)の「丹波丹後若狭紀行」で、「府中から成相寺へ登ることになり、その坂の途中で、此坂中より天橋立、切戸の文珠、橋立東西の与謝の海、阿蘇の海目下に在て、其景言語ヲ絶ス」と成相寺(なりあいじ)への坂の途中から眼下に広がる景観に感動し、「日本の三景の一とするも宜也」(日本三景の一つと言われるのもその通り)と記しているので、この「日本の三景」がかなり定着していたことがわかります。

貝原益軒の『己巳紀行』と『東路記』は、江戸時代の紀行文で、現在の旅行情報誌的な存在。
これを読んだ人は、「日本の三景」の存在を憧れの地として記憶したことでしょう。

松尾芭蕉も松島は、『奥の細道』の目的地のひとつで、いわば、念願の地。
元禄2年5月9日(1689年6月25日)に松島を訪れていますが、奇しくも貝原益軒が天橋立を訪れた直後です。

ちなみに、7月21日は「日本三景の日」となっていますが、これは元和4年5月29日(1618年7月21日)に生まれ、松島を「丹後天橋立・安芸厳島と三処の奇観となす」と記した林鵞峰の誕生日(西暦を採用)にちなんだもの。

世界三大英雄、世界三大美人はかなりマユツバものですが、日本三景に関しては江戸時代からの定番だったことがわかります。
林鵞峰以前にすでに三景が定着していたのかどうかは、定かでありませんが、中世の松島は、雄島を「陸と海の狭間にある島=この世とあの世をつなぐ島」と考え、「奥州の高野」と称される死者供養の霊場、極楽浄土に近い場所だったので、やはり江戸時代(近世)に日本三景が定着したと考えることができるでしょう。

日本三景を多くの旅人が訪れるようになるのは、明治時代以降のことです。

日本三景・松島
日本三景・陸奥松島
日本三景、誰が決めた!?
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日本三景

日本三景とは!?

寛永20年(1643年)に刊行された林春斎(はやししゅんさい/林羅山の三男・林鵞峰)の『日本国事跡考』の陸奥国のくだりで、松島、丹後・天橋立、安芸・宮島(原文は厳島)を卓越した三つの景観(原文は「三處奇觀」)としたのが、日本三景の始まり。松

 

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