東京都練馬区石神井台、石神井公園(しゃくじいこうえん)の三宝寺池南岸にある中世の城館跡が、石神井城。石神井川流域を拠点とした豊島氏(豊嶋氏)の居城で、鎌倉時代中期~末期頃の築城と推測されています。中世の城なので石垣などはなく、内郭の土塁、空壕が現存しています。東京都の史跡に指定。
石神井川流域を支配した豊島氏の拠点となった城
石神井城は、文明9年(1477年)、豊島勘解由左衛門尉(としまかげゆさえもんのじょう=豊島泰経・としまやすつね)が城主の時に太田道灌(おおたどうかん)によって落城し、廃城となっています。
城の中心部分にあたる内郭の土塁と空壕のみ現存。
石神井城を築いた理由は、石神井川の源流となる三宝寺池の水利を抑え、流域を勢力下に収めるため。
現在の練馬区には、室町時代、石神井城の支城として築かれた練馬城もありましたが、それが遊園地「としまえん」のあった場所(「ワーナー ブラザースの「スタジオツアー東京 メイキング・オブ ハリー・ポッター」が令和5年開業)です。
支城の練馬城、板橋城(現・板橋区東山町、上板橋小学校周辺)、滝野川城(現・北区滝野川3丁目、金剛寺周辺)、平塚城(現・北区上中里、平塚神社周辺)を石神井川沿いに1里(4km)間隔ほどで築いて守りを固めています。
平成10年11月の主郭構造解明調査で、堀の形態は底面が平らな箱堀で、 深さは底面まで6m、幅が11.7m〜12.5m、土塁は、堀の端から裾部まで16.3mで、現存する高さが3mと判明しています。
平成12年11月の発掘調査で、土塁の盛土下層から刃の先端部が折損した鉄製小刀(現存する長さ16.3cm)、室町時代の常滑焼(とこなめやき=現・愛知県知多半島で焼成された焼物)の破片なども出土しています。
練馬区と豊島氏の歴史は、石神井城跡東側、石神井公園に隣接する石神井松の風文化公園内の管理棟内の「石神井公園ふるさと文化館分室」で解説されています。
太田道灌の江戸城築城と石神井城の落城の関係とは!?
豊島氏は鎌倉時代には守護・地頭職を務め、室町時代には関東管領(かんとうかんれい)上杉氏に属し、南武蔵でその勢力を培っていました。
文明3年(1471年)、関東管領・上杉顕定(うえすぎあきさだ) から上野国・館林城攻撃で奮戦したことを賞する感状が届いています。
その後、関東では関東管領・上杉氏の専制に対抗し、鎌倉府の再興を願い出た越後国守護・上杉房朝(うえすぎふさとも)や関東の武士団が力をつけ、享徳の乱(きょうとくのらん)が勃発。
扇谷上杉家の配下・太田道灌が享徳の乱に際して康正3年(1457年)江戸城を築城し、豊島氏との対立が生まれました。
豊島泰経は石神井城、練馬城(東京都練馬区)で挙兵し、河越城、岩槻城と江戸城の連絡を分断しますが、江古田原・沼袋の戦いで、江戸城から出陣した太田道灌に敗れ、石神井城に敗走。
石神井城も落城し、豊島泰経は最終的に小机城(現・横浜市)に逃れていますが、その後の消息はありません。
石神井城 | |
名称 | 石神井城/しゃくじいじょう |
所在地 | 東京都練馬区石神井台 |
関連HP | 練馬区公式ホームページ |
電車・バスで | 西武池袋線線石神井公園駅から徒歩15分 |
ドライブで | 関越自動車道練馬ICから約3.5km |
駐車場 | 石神井公園駐車場(70台/有料) |
問い合わせ | 都立石神井公園管理事務所 TEL:03-3996-3950 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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