東京都中央区明石町、隅田川に架かる佃大橋の西側、佃大橋交差点近く、明石町緑道に立つのが、青山学院記念の地碑。青山学院は、明治10年、築地につくられた海岸女学校が源流のひとつで、平成20年3月4日に旧海岸女学校跡に青山学院記念の地碑が建立されたもの。
青山学院の源流のひとつ海岸女学校は築地居留地に
青山学院は、米国メソジスト監督協会の宣教師により創設された3つの学校が源流で、そのうちのひとつが、海岸女学校。
佐倉藩の農学者、津田仙の斡旋で、米国メソジスト派の伝道師ドーラ・E・スクーンメーカー(Dora E. Schoonmaker)によって明治7年、麻布に女子小学校を創立。
明治8年、三田の宝生院の一部を借りて救世学校となりましたが、寺の中にキリスト教学校あるのが問題視され、明治9年、築地居留地の明石町10番地に移転して海岸女学校となり、明治の女子教育に多大な足跡を残したのです。
残りの2つが明治11年に津田仙の命名、斡旋によりジュリアス・ソーパー(Julius Soper)が築地に設立した耕教学舎、明治12年にロバート・S・マクレイ(Robert Samuel Maclay)が横浜山手町に設立した美會神学校(みかいしんがっこう)で、明治15年、美會神学校は、明治15年9月に東京・築地に移転して東京英学校(耕教学舎の後身)と合併。
さらに翌年赤坂区青山南町7丁目の開拓使農事試験場第二官園跡地に移転し、東京英和学校と改称、ロバート・S・マクレイが初代総理(現在の院長職)に就任しています。
明治21年、海岸女学校の上級生28名は東京英和学校敷地内に移って、東京英和女学校となり、明治27年6月20日の明治東京地震で海岸女学校は廃校に。
明治28年、東京英和女学校は青山女学院となり、昭和2年に青山学院と統合しています。
新制大学として青山学院大学となったのは、昭和24年のこと。
校名は、東京府赤坂区青山南町7丁目(現・東京都渋谷区渋谷4丁目)という地名に由来しています。
築地居留地の跡には、立教女学院築地居留地校舎跡記念碑、立教学院発祥の地碑、明治学院発祥の地碑とミッション系の学校の発祥の地碑が数多く立っています。
青山学院記念の地碑(旧海岸女学校跡) | |
名称 | 青山学院記念の地碑(旧海岸女学校跡)/あおやまがくいんきねんのちひ |
所在地 | 〒104-0044 東京都中央区明石町6-24 |
電車・バスで | 東京メトロ新富町駅から徒歩7分 |
駐車場 | 周辺の有料駐車場を利用 |
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