【知られざるニッポン】vol.29 徳川家康の遺体はどこにある!?

徳川家康は、元和2年4月17日(1616年6月1日)に駿府城で没すると、密かに久能山に運ばれ、通夜も行なわれずに埋葬されています。遺言で、久能山に遺体を納め、増上寺で葬儀を行なったら、一周忌の後に日光山に小さな堂を建て、勧請せよと指示しているので、一周忌後に久能山に改葬されています。さて、その「改葬」ですが、遺体も含めての改葬だったのか、実は定かではありません。

駿府城で没した家康は、久能山に埋葬された!

家康は、駿府城の病床に、側近の本多正純、金地院崇伝、南光坊天海の3人を呼び、遺言を残します。
黒衣の宰相と呼ばれた家康側近の金地院崇伝(こんちいんすうでん)の『本光国師日記』には、「臨終候はば御躰をば久能へ納。御葬禮をば增上寺にて申付。御位牌をば三川之大樹寺に立。一周忌も過候て以後。日光山に小き堂をたて。勧請し候へ。八州之鎮守に可被爲成との御意候。皆々涙をなかし申候。」

家康の遺体は、側近の手により、密かに久能山に運ばれ、吉田神道の作法で埋葬されています。
遺体を西に向けて埋葬したのも家康の遺言。
久能山東照宮の話では、「家康公は四角い棺(ひつぎ)に正装姿で座した状態で、西を向いている葬られている」とのことで、故郷の三河を眺めているとも、まだ豊臣の残党がいる西国や、京の朝廷に睨みをきかせているといわれています。

翌年、天海僧正により天台系の山王神道に主張に基づいて、後水尾天皇から「東照大権現」の神号が勅許され、日光山へ改葬されたのです。
東照宮という名は、東を照らす(東方薬師瑠璃光)如来が神となって姿を表したというのが本来の意味ですが、東国・関八州を見守るという意味合いが込められた神号でもあるのです。
家康は久能山で西を睨み、扇の要のような関東の要である日光山で関東を守護する権現(天台宗の山王神道で薬師如来の神格化したもの)となったのです。

日光東照宮への改装時に、家康の遺体が移されたのか!?

久能山東照宮の神廟(徳川家康墓所)

久能山東照宮の神廟(徳川家康墓所)

日光への改葬は藤原鎌足が死後1年後、摂津から大和に遺体を移した故事に倣ったもの。
久能山は土葬されているので、そもそも遺体を改葬するのが難しいだろうと推測できます。
さらに、久能山東照宮では、「日光に改葬したのなら久能山に巨大な廟所を築く必要がなかったのでは」と解説しています。

金地院崇伝の『本光国師日記』には、「日光山に小き堂をたて。勧請し候へ」と、「勧請」と記されているので、あくまで神格化した神霊のみを遷した(勧請した)と考えるのが自然ではないかと思われます。

天海僧正も「あれはある奈け連は奈ひ尓駿河なるく能奈き神の宮遷し哉」(阿部正信『駿國雜志』)という和歌を残しています。
もう少し読みやすくすれば、「あればある なければないに 駿河なる くのなき神の 宮遷しかな」となります。
この「くのなき神の宮うつしかな」の部分に注目で、地元静岡では、「軀(く=亡骸)のない神様の宮遷し」と読み解かれているのです。

日光東照宮は、そのホームページで「久能山より現在の地に移されおまつりされました」とサラリと触れる程度で、玉虫色に解釈が可能。
家康が葬られた久能山の神廟も、日光の奥宮も、これまで発掘調査は行なわれておらず、真相はいまだ謎に包まれています。
遺体は日光に移されたと考えるのが自然とする研究者もいて、死後400年以上経ても論争が勃発。

「全国には東照宮がたくさんあり、そのすべてに家康が神様となって鎮座しています。だから亡骸がどこにあるのかはささいな問題」とは、とある東照宮の神官の話。
立身出世の神様としても人気の東照宮、没後400年以上たっても、謎を生む、なかなかの知恵者だったことがわかります。

取材協力/久能山東照宮、静岡県観光協会

久能山東照宮・国宝社殿(拝殿・石の間・本殿)

2018.01.06

久能山東照宮・神廟(家康墓所)

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久能山東照宮

2018.01.06
 

 

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