文豪・島崎藤村(しまざきとうそん)は、明治32年、小諸義塾の教師として信州・小諸に招かれ、小諸で6年間暮らしています。結婚、3人の娘の誕生、「物を見る稽古」のために『千曲川のスケッチ』を書き記し始めた頃です。そして『破戒』の執筆活動と、藤村の人生にとって大きな転機となったため「小諸時代」と呼ばれています。
藤村は小諸で所帯を持ち3人の子女を持った
『若菜集』を執筆発表して文壇に登場した島崎藤村は、明治32年4月、恩師の小諸義塾の塾長・木村熊二に招かれ、長野県小諸町(現在の小諸市)の小諸義塾に国語と英語の教師として赴任します。
同じ月には明治女学校校長で『文学界』を創刊した巖本善治(いわもとよしはる)の媒酌により函館の網問屋の三女・秦冬子と結婚。
明治33年4月には、有名な「千曲川旅情の歌」が、『明星』の創刊号に「旅情」という題で発表され、明治34年8月刊行の『落梅集』に「小諸なる古城のほとり」という題で収められています。
千曲川旅情の歌は一と二に分かれていますが、明治33年の発表は、一の部分(以下)のみです。
千曲川旅情の歌
一
小諸なる古城のほとり
雲白く遊子(いうし)悲しむ
緑なす繁蔞(はこべ)は萌えず
若草も藉くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡邊
日に溶けて淡雪流る
あたゝかき光はあれど
野に滿つる香(かをり)も知らず
淺くのみ春は霞みて
麥の色わづかに靑し
旅人の群はいくつか
畠中の道を急ぎぬ
暮れ行けば淺間も見えず
歌哀し佐久の草笛
千曲川いざよふ波の
岸近き宿にのぼりつ
濁り酒濁れる飲みて
草枕しばし慰む
島崎藤村が「千曲川旅情の歌」を執筆したのは中棚鉱泉(現・中棚荘)。大正館の藤村の間は、大正時代に藤村執筆の部屋をそのまま保存復元したものと推測されます。
藤村の暮らした地は現在の相生町3丁目
「小諸時代」の藤村が暮らしたのは、現在の小諸市相生町3丁目で、残念ながら「島崎藤村旧栖地」(しまざきとうそんきゅうせいち)という碑が残されるのみ。建物は佐久に移築保存されています。
その近くには藤村が早朝に洗顔し一日の生活を始めたという井戸が残されています。現在はポンプ式ですが、当時はつるべ式の共同井戸でした。
もちろん、冬子夫人も洗いものなどに使っていたわけです。
当時、日本各地でこんな共同井戸があり、主婦たちは井戸端会議に花を咲かせました。
また藤村の3人の子女の出産は地元の主婦たちが手伝ったので、この井戸はまさに「産湯の井戸」として使われました。
この相生町の家で、島崎藤村は、小説家への転身を決意し、「人生の旅人」からの離別を考えたのです。
屋敷跡に立つ「藤村舊栖地」の碑文は、有島生馬の筆となっています。
藤村ゆかりの地・小諸としての藤村顕彰は、昭和になってから。
昭和2年3月には信濃協会と旧小諸義塾同窓会が発起し、多くの協力者の賛意により懐古園内に藤村詩碑が建設されたのです。
有島生馬の案で、藤村自筆の「千曲川旅情のうた」をもとに、鋳金家・高村豊周(たかむらとよちか/高村光雲の三男、高村光太郎の弟)の鋳造したの青銅パネルが埋め込まれています。
島崎藤村旧栖地 | |
名称 | 島崎藤村旧栖地/しまざきとうそんきゅうせいち |
所在地 | 長野県小諸市相生町3丁目 |
電車・バスで | JR・しなの鉄道小諸駅から徒歩5分 |
ドライブで | 上信越自動車道小諸ICから約3.5km |
駐車場 | 市役所駐車場を利用/30分まで無料、以降有料 |
問い合わせ | 小諸市観光協会 TEL:0267-22-1234/FAX:0267-25-3380 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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