太平洋戦争が勃発する直前の昭和16年9月、関東防衛の一翼を担う飛行場として建設が開始されたのが、茂原海軍航空基地。第五五二海軍航空隊(昭和17年12月1日、特設航空隊として茂原飛行場で開隊)の基地。滑走路跡が道路として残されるほか、飛行機を隠す掩体壕(えんたいごう)も現存。
東京ドーム19個分という巨大な航空基地があった!
外房線茂原駅の北側、千葉県茂原市東郷に三井化学茂原分工場がありますが、敷地の東縁を南北に走る市道が、滑走路の跡。
茂原分工場の東門あたりでは道路の幅も広がり、なんとなく滑走路跡という雰囲気を醸し出しています。
南側の富士見公園は、滑走路の南端なので、富士見公園を目的地にすれば、滑走路跡の道路はすぐわかります。
昭和16年9月、木崎、谷本、町保、新小轡、本小轡などに暮らす150戸の民家、東郷国民学校(現・東郷小学校)、さらには寺社などが強制移転を命じられ、茂原海軍航空基地の建設がスタートしています。
司令部は茂原市立萩原小学校の建つ場所に。
下士官兵の暮らす宿舎があったのは茂原市立茂原中学校、千葉県立茂原樟陽高等学校の建つ場所です。
東郷保育所前を通る千葉県道293号(茂原環状線)は、今も海軍道路と呼ばれています(当時の東郷海軍道路)。
そこが海軍航空基地の東端です。
88.7ha、東京ドーム19個分という巨大な敷地で、茂原駅からまっすぐ北に、現・茂原中学校方面に日本海軍の専用鉄道(引込線)も敷設されていました。
掩体壕は、3号掩体壕が私有地にありながら市が借り受け、文化財として保存しています。
周辺には50基もの掩体壕が築かれ、一帯が一大航空基地だったことがわかります。
茂原海軍航空基地の設置にあわせ、茂原慰安所 (通称・早野新田海軍慰安所)もありました。
戦後、海上自衛隊基地への転用計画が持ち上がった際に、反対運動などが起こり、跡地に東洋高圧工業(現・三井化学茂原分工場)を誘致、飛行場は姿を消しています。
昭和45年10月に京葉航空機が小型機の場外離着陸場「茂原エアポート」を開場していますが、この飛行場は茂原飛行場とは別の場所、現在は真名カントリークラブのコースに転じています。
なお、この記事は一部、以下のサイトを参考に執筆しています。
茂原を旅するなら、まずは『外房雑記録』を読もう!
- 幻の自衛隊基地計画、茂原海軍航空基地跡地の戦後史
- 茂原飛行場と茂原エアポート、戦後民間航空の原点と幻の民間飛行場
- 茂原新地の歴史、海軍慰安所から大衆娯楽施設への変遷
- 廃線・廃止された鉄道「旧茂原飛行場と軍用引込線」
いずれの記事も茂原を地道に、精力的に取材された成果が活かされており、茂原を旅する人、歴史に興味ある人にとっては必読の内容です。
| 【地図を旅する】vol.24 茂原海軍航空基地の滑走路跡が道路に! | |
| 所在地 | 千葉県茂原市東郷 |
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