南予最大の都市、宇和島(愛媛県宇和島市)。城下町の形成は慶長元年(1596年)、「築城の名手」といわれた藤堂高虎(とうどうたかとら)が、自身の居城、宇和島城を築城、町割りをしたことに始まります。この城下町は宇和島城を中心の五角形に広がるという特異なもの。日本唯一の「放射状の城下町」です。
築城の名手・藤堂高虎、初となる自身の城

藤堂高虎の築城、城下町整備は6年にも及びますが、城下町はそれだけでは完成せず、藤堂高虎が徳川家康の重臣となり、津藩主となったことで、慶長13年(1608年)が宇和島に入部し、富田時代になってようやく完成しています。
宇和島城は、海に臨んだ標高80mほどの丘に建つ天然の要害。
城郭は五角形で、2面は海に面し、残る3面は海水を入れた濠を境に城下町と接していました。
宇和島市の街路網が現在も五角形になっているのは、藤堂高虎の町割りが、宇和島城を基準につくられたから。
そのため、城郭から放射状に道路がのびるというユニークな城下町が誕生したのです。
藤堂高虎は、築城の名手といわれるだけあって、豊臣秀吉の家臣時代に、大和・郡山城、紀州・和歌山城を、さらに淀城(山城)を築城していましたが、大名として自身の居城を築いたのはこの宇和島が初めて。
つまりは、これまで得ていた築城の知識と技術を宇和島城に投入したと推測できるのです。
築城が始まった慶長元年(1596年)は、まだ豊臣秀吉が健在で、朝鮮半島に出兵(慶長の役)していた頃。
また慶長伏見地震で京の方広寺大仏が倒壊したこともあったので、宇和島城とその城下町には実戦的な防御と、地震対策を込めた可能性もあります。
藤堂高虎の町割りは、城の東部に商人・職人町、南部に武家町を配し、その外縁となる城の山麓に寺町を置いていざという時の防御拠点としています。
藤堂高虎が意図して放射状にしたかといえば、地形的に幹線道路を放射状にしたに過ぎないというのは、商人・職人町や武家町の碁盤目状の町割りを見ても明らか。
その意味では日本には放射状の城下町は存在せず、街路が放射状に伸びるのが唯一宇和島というのが正しい認識かもしれません。
【城下町を学ぶ】日本で唯一、「放射状の城下町」宇和島 | |
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