幕末の慶応2年5月13日(1866年6月23日)、アメリカ、イギリス、フランス、オランダと結んだ「改税条約」(江戸条約)で、8ヶ所に洋式灯台を建設することが決まりましたが、最初の灯台は、江戸湾入口の観音埼灯台で、1868年11月1日(明治元年9月17日)に起工。これを記念して11月1日は、灯台記念日になっています。
日本初の洋式灯台は観音埼灯台
「改税条約」(江戸条約)第11条に「日本政府ハ外国交易ノタメ開キタル各港最寄船ノ出入安全ノタメ灯明台、浮木、瀬印木ヲ備フベシ」と記され、航路標識の設置が義務付けられたのです。
当時の江戸幕府は誰ひとりとして西洋式の灯台を見たことがなかったため、フランスとイギリスに、灯台のレンズや機械の購入、さらには技術指導を依頼していました。
そんな最中(さなか)に、幕藩体制が終焉したため、明治新政府がこの仕事を引き継ぎ、観音埼灯台などが建設されたのです。
江戸幕府は近代化を進める過程で、フランスの技術協力による近代的造兵廠の建設を決定し、元治2年1月29日(1865年2月24日)、フランスの海軍技師、フランソワ・レオンス・ヴェルニー(François Léonce Verny)を招聘し、横須賀に製鉄所、造船所などの建設をスタートさせています。
ヴェルニーはその頃、フランス軍が警備する中国・寧波で造船所、ドック、砲艦などを築くなど活躍を見せ、レジオンドヌール勲章(フランスで最高位の勲章)を受賞していましたが、江戸幕府が江戸近くに造船所などを築きたがっていることをフランス海軍・バンジャマン・ジョレス提督(小栗忠順が横須賀造船所の建設を計画すると、ジョレスはレオンス・ヴェルニーを紹介)からの手紙で知り、「イギリスの郵船ですぐに横浜に向かってほしい」というその強い意向を受けて、上海から横浜に来航、すぐに横須賀製鉄所起立原案を作成しています。
地中海のツーロンに似て、横須賀は最適地とされたのですが、当時の横須賀は戸数わずかに30余という寒村でした。
フランス側と幕府との間で毎年60万ドルを4年間にわたって支払う約束をしていたため、工事は明治政府に引き継がれたのです。
明治時代の灯台は、リチャード・ヘンリー・ブラントンが多く設計に携わり、「灯台の父」と称されるのはブラントンですが、最初の洋式灯台はこのヴェルニー設計です。
フランス人であるヴェルニー設計の灯台は江戸湾(東京湾)周辺の4ヶ所(観音埼、野島埼、品川、城ヶ島)だけで、後は、ブラントンが率いるイギリス人によって作られています。
ヴェルニーが築いた初代の観音埼灯台は、横須賀製鉄所で焼かれたレンガを使っていましたが、関東大震災で倒壊、現在の灯台は大正14年6月1日再建の2代目。
観覧灯台なので、灯火部分に上り、海上交通ラッシュの東京湾と対岸の房総半島を眺めることができます。
ちなみに横須賀製鉄所の建設を指導したヴェルニーは、赤れんがの国産化が可能であると判断、製造実験を行ない、その量産化を成功し、製鉄所、観音埼灯台、品川灯台、横須賀製鉄所副首長ティボディエ官舎などにもそのレンガを使っています(「ヨコスカ製銕所」の刻印があります)。
横須賀港・ヴェルニー公園に建つ「ヴェルニー記念館」では、「ヨコスカ製銕所」刻印レンガの実物を展示するほか、ヴェルニーの業績を詳しく解説しています。
11月1日は、観音埼灯台起工の日で「灯台記念日」 | |
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