三段壁洞窟

三段壁洞窟

和歌山県西牟婁郡白浜町、白浜を代表する景勝地、三段壁の地下、36mに広がる海蝕洞が三段壁洞窟。源平合戦で源氏方に付いて活躍した熊野水軍の舟隠し場の伝承のある海蝕洞で、観光洞として有料施設になっています。地上から洞内へはエレベーターで下ります。

洞内には瀬戸鉛山鉱山跡なども

三段壁洞窟PV
三段壁洞窟
三段壁洞窟空撮MAP

全長200mの洞内には、熊野水軍番所小屋(復元)、日本一の大きさを誇る弁才天像の牟婁大辯才天(むろだいべんざいてん)、瀬戸鉛山鉱山跡(せとかなやまこうざんあと)、展望台があり、海から打ち寄せる波が海蝕洞に浸入する姿を眼前にできます。

瀬戸鉛山鉱山は、鉄砲が伝来した戦国時代、銃弾の原料としての鉛の需要が高まったことを背景に、正親町天皇の時代に開鉱されたと伝えらる鉱山で、三段壁から草平原の地下に鉱穴(まぶあな=井戸掘り式の竪穴)が300ヶ所ほど設けられていたのだとか。
鉛が採掘されたことで、一帯の村名も瀬戸鉛山村(せとかなやまむら)に。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦の論功で、浅野幸長が紀伊国に入国すると、税を免除し採鉱を奨励した記録が残されています。

戦前は三菱鉱業が坑道を新設、戦後も昭和31年昭和鉱業が亜鉛を採掘していましたが、昭和48年に坑道の入口をコンクリートで防いで完全廃鉱になっています。

熊野水軍は、21代熊野別当・湛増(たんぞう)が率いた水軍で、源平合戦では屋島の戦い、壇ノ浦の合戦などに参戦し、源氏を勝利へと導いています。
湛増は、後世、武蔵坊弁慶の父としても描かれていますが、史実ではありません(『吾妻鏡』、『平家物語』にもほとんど記述がなく、武勇伝は南北朝時代から室町時代初期に成立した『義経記』など後世の創作です)。
熊野水軍の舟隠しの伝承も、拠点である紀州では隠す必要性もなく、船泊としては入江を利用したと考えられるので、あくまでも伝承の域を出ません(後世の創作)。

なお、自然の海蝕洞がベースのため、台風や高波の際には見学できないこともあります。

三段壁は、南紀熊野ジオパークのジオサイトになっています。

三段壁洞窟
名称 三段壁洞窟/さんだんぺきどうくつ
所在地 和歌山県西牟婁郡白浜町
関連HP 三段壁洞窟公式ホームページ
電車・バスで JR白浜駅から明光バス三段壁行きで23分、終点下車、徒歩2分
ドライブで 阪和自動車道南紀田辺ICから約16km
駐車場 町営駐車場(100台/無料)
問い合わせ 三段壁洞窟 TEL:0739-42-4495
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

三段壁

白浜の西端に広がる延長2kmの海食崖で、新第三紀層の厚い砂岩の地層(田辺層群)が波の侵食を受けて隆起し、50mもの断崖となったもの。ここにはその昔、漁師たちが行き交う船や魚群を見張った「見壇(みだん)」があり、地名は見壇が三段に訛ったものと

 

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