愛媛県新居浜市にある日本の近代化にも大きく寄与した別子銅山(べっしどうざん)最初の坑道が歓喜坑・歓東坑。元禄3年(1690年)、鉱夫・切場長兵衛から足谷山(別子)に有望な露頭のあることを教えられた泉屋(住友)支配人の田向重右衛門(たむけじゅうえもん)が調査し、鉱脈を発見した喜びから歓喜坑と命名されたもの。
別子銅山最初の坑道は、足谷山の山上に
銅商・大坂屋久左衛門(おおざかやきゅうざえもん)経営の伊予国・立川銅山で働いていた切場長兵衛(切上り長兵衛)は、立川銅山に隣接する足谷山(別子)に銅鉱が連鎖し、有望な露頭があることを、当時、備中の吉岡銅山(現・高梁市成羽町吹屋)で掘削していた泉屋(住友)の支配人・田向重右衛門を訪ねて伝えます。
田向重右衛門は、その年の秋、備後・鞆の津(現・広島県福山市鞆)から川之江湊(現・愛媛県四国中央市)へと瀬戸内海を船で渡り、赤石山系の小箱峠を越えて別子山村の弟地(おとじ)に到着。
さらに銅山川を源流へと遡行し、標高1210m地点で、地面に飛び出した露頭(銅鉱石が地表に露出し、酸化変質して褐色の酸化鉄になったもの)を発見、それまでの苦労から抱き合って歓喜したと伝えられています(その喜びから抗口を歓喜間符と命名)。
早くも翌、元禄4年(1691年)に幕府の許可を得て歓喜間符(坑道)での採掘を開始します(発見者・切場長兵衛は、江戸時代、別子山神の化身のように崇められました)。
厚さ2.5m、幅1000mの鉱床が地中に向かって延びていたといい、江戸時代の別所銅山の坑夫はここから坑内に出入りし、歓喜坑・歓東坑ふたつの坑(間歩)をあわせて別子本鋪(べっしほんじき)と呼んでいます。
江戸時代には採掘から製銅まですべて山中で人力で行なわれていたのです。
銅山越に近い山中に坑口が現存!
歓喜抗前には、鋪方役所(採掘事務所)が設置され、現在ヒノキ林となった地には坑夫の住宅が並んでいました。
鉱石は槌(つち=和製のハンマー)と鑿(のみ)で掘られ、運搬夫が籠(かご)で運び出し、砕女(かなめ)小屋で砕女と呼ばれる女性達が砕くというのが一連の作業工程です。
砕いた鉱石は、炭火で溶かし、銅分が8~9割の粗銅(あらどう)に製錬していました。
粗銅は、仲持(なかもち)が人肩運搬路(険しい山道=足谷山〜弟地〜芋野仲塾〜小箱越〜勘場平中宿〜中の川〜浦山)を使って(男性で45kg、女性で30kgを担ぎ)運び出しました(「マイントピア別」子には、仲持ち像というモニュメントがあります)。
明治13年に目出度町から銅山越を経て、新居浜口屋へと至る約28kmの運搬路「牛車道」が完成するまで、この人肩運搬路が使われ、人が粗銅を背負って運んでいました(牛車道は、明治中期の鉱山近代化で索道、鉄道に変わっています)。
現在の歓喜坑、歓東坑の抗口は、平成13年に復元修理されたもの。
歓喜坑跡・歓東坑跡は、別子銅山関連遺産(「地域と様々な関わりを持ちながら我が国の銅生産を支えた瀬戸内の銅山の歩みを物語る近代化産業遺産群」)として経済産業省の近代化産業遺産にも認定。
別子銅山歓喜坑・歓東坑 | |
名称 | 別子銅山歓喜坑・歓東坑/べっしどうざんかんきこう・かんとうこう |
所在地 | 愛媛県新居浜市別子山 |
関連HP | 新居浜市公式ホームページ |
ドライブで | 松山自動車道新居浜ICから約25kmで銅山跡入口 |
駐車場 | 銅山跡入口駐車場(10台/無料) |
問い合わせ | 新居浜市観光案内所 TEL:080-8105-3641 |
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