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龍馬脱藩の道・泉ヶ峠

龍馬脱藩の道・泉ヶ峠

愛媛県喜多郡内子町と大洲市の境、愛媛県道56号(内子河辺野村線)の脇にある旧道の峠が、龍馬脱藩の道・泉ヶ峠(いずみがとう)。泉ヶ峠は往時には、土佐街道の交通の要所で、文久2年3月26日(1862年4月24日)、土佐藩を脱藩し、伊予藩内に入った龍馬が、最初の夜を迎えた峠が、泉ヶ峠です。

脱藩後、最初の夜を迎えた峠には往時の旧道が現存

坂本龍馬は、文久2年3月24日(1862年4月22日)、高知城下を旅立ち、山口へと向かいます。
3月26日、土佐・伊予国境の韮ヶ峠を越え伊予国に入ったのが脱藩初日。
坂本龍馬と沢村惣之丞(さわむらそうのじょう=吉村虎太郎と脱藩後、土佐に一時帰国していたため、2回目の脱藩)は、その夜は泉ヶ峠(いずみがとう)で過ごし、27日、宿間村の小田川(亀の甲/現・内子町五十崎)から大洲へ、そして長浜(冨屋金兵衛宅に泊)から長州・三田尻を目指し、瀬戸内海へと船出したと推測されています。
道案内人・那須俊平(なすしゅんぺい=「土佐一の槍の名手」)は亀の甲まで同行し、船出を見送り、高知に戻ったのです。


愛媛県道56号(内子河辺野村線)の泉ヶ峠は、とくになにもない峠ですが、峠の案内板横から階段状の道を上ると、旧道の峠となります(周囲は植林地帯です)。
ともに寂れていますが、往時には峠の集落があり、旅籠もあったので、野宿ではありません。
大正時代まで、「よろず屋」という雑貨店があり、その2階が宿になっていました。

土佐藩領の檮原(25日夜の宿泊地)から、大越峠、藤の越、韮ヶ峠(国境、那須信吾はここまで同行)、榎ヶ峠、封事ヶ峠、水ヶ峠、泉ヶ峠と1日にして50kmほどの道のり、しかも7つの峠越えという強行軍だったことがわかります。
江戸時代の旅人にしても、少し強行軍の日程で、55歳だった沢村惣之丞も歩き通しているので、健脚ぶりが偲ばれます。

峠の北側には「日本の棚田百選」に選定の泉谷棚田もあるので、あわせて見学を。
また県道からダラリ林道に入った先には、だらり権現がありますが、林道からのアプローチがかなり危険(巨岩を鎖でよじ登る場所も)。

龍馬脱藩の道・泉ヶ峠
名称 龍馬脱藩の道・泉ヶ峠/りょうまだっぱんのみち・いずみがとう
所在地 愛媛県喜多郡内子町北表甲・大洲市河辺町山鳥坂
ドライブで 松山自動車道内子五十崎ICから約15km
問い合わせ 内子町ビジターセンター TEL:0893-44-3790
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

坂本龍馬脱藩之日記念館

愛媛県大洲市河辺町、河辺川沿いに走る愛媛県道55号(小田河辺大洲線)に建つのが、坂本龍馬脱藩之日記念館。文久2年3月26日(1862年4月24日)、坂本龍馬が国禁を犯して土佐藩を脱藩し、高知から山口に向かう途中、那須信吾の案内で山深い河辺村

泉谷棚田

愛媛県喜多郡内子町、大森山の山腹、御祓(みそぎ)地区にある棚田が、泉谷棚田(いずみだにたなだ)。急斜面に石積みの水田95枚が広がる絶景の棚田は「日本棚田百選」にも選定。「泉谷地区棚田を守る会」が組織され、農業体験の受け入れが行なわれています

だらり権現

愛媛県喜多郡内子町、大森山の中腹にある神仏習合時代の山岳信仰の霊場が、だらり権現。愛媛県道56号(内子河辺野村線)途中から林道ダラリ線に入り、200mほど走った場所が、だらり権現入口。入口から石段を上り詰め、巨岩の間をハシゴで抜け、さらに

紅葉ヶ滝

愛媛県喜多郡内子町を流れる御祓川(みそぎがわ)に流れ落ちる支流に懸る美しい滝が、紅葉ヶ滝(もみじがたき)。国土地理院の地形図にも紅葉滝として記載される落差17mの滝で、新緑、紅葉の名所になっています。新緑、紅葉の時期は最高に美しい愛媛県道2

 

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