愛知県半田市、黒板囲いの蔵が軒を並べる半田運河沿い源兵衛橋と新橋の間にあるのが中埜酒造(なかのしゅぞう)。弘化元年(1844年)創業で『國盛』(くにざかり)の銘柄で有名な蔵元、中埜酒造は、かつて使われていた蔵を博物館に再生、それが國盛・酒の文化館(中埜酒造)です。
麹室などを当時のままに復元
半田は江戸時代から銘酒を醸す土地として知られ、船足の早い知多廻船(尾州廻船)で江戸へと運ばれ、江戸と上方の中間に位置することから「中国銘酒」として江戸でも評判を博し、江戸時代中期には江戸で消費する酒の3割を担うまでに成長しています。
そんな知多の銘酒の歴史を今に伝えるのが「こころで造る日本のうまさ」をモットーにする中埜酒造。
昭和60年、中埜酒造が新工場を完成させたのを機に、200年にわたって酒造りが行なわれた酒蔵を資料館に再生したのが國盛・酒の文化館。
事前に電話で予約すれば無料で見学することができます。
数百点におよぶ古い酒造りの道具が展示されるほか、麹室などを当時のままに復元し、酒造りの工程を学ぶことが可能。
國盛を利き酒するコーナーも設置されるほか、売店で自慢の酒を購入することもできます。
また、國盛・酒の文化館(中埜酒造)から半田運河沿いに南へ歩くと、「伝統食品の近代化や新たな食文化の創造に挑んだ中部・近畿の食品製造業の歩みを物語る近代化産業遺産群」として経済産業省の近代化産業遺産にも認定される半田蔵の町並み(ミツカン工場群)があります。
『國盛』の歴史は知多半島の近世以降の歴史でもある
江戸で飲まれる知多の酒造業の繁栄を背景に、弘化元年(1844年)、小栗富治郎(おぐりとみじろう)が中埜又左衛門(なかのまたざえもん)から酒造株を譲り受けて創業したのが中埜酒造。
中埜又左衛門は、「ミツカン酢」で有名な中埜酢店の創業者で、当時、中埜家は尾張藩から余剰米を使った酒造権(酒株)を与えられていました(中埜又左衛門は分家で酒粕を使った安価な「粕酢」を江戸で販売し、握り寿司などに使われて江戸に寿司ブームを起こしています)。
中埜酒造を創業した小栗富治郎は、中埜又左衛門の醸す粕酢を運ぶ知多廻船の船頭のひとりで、30隻の輸送船を抱えるなど成功を収めていました。
その勢いで蝦夷地との交易にも乗り出し、財を成し、ついに酒造株を譲り受け、粕酢造りに注力する中埜又左衛門の補佐役としても才能を発揮、激動の幕末から文明開化を迎え、さらに国が栄えるようにという願いを込めて、「國盛」という銘柄にしたのです。
2代目・小栗冨治郎は貴族院議員を兼ねる名士となり、明治23年3月29日〜4月2日、知多半島で行なわれた陸海軍連合大演習(日本で最初の大演習)の際には、小栗冨治郎邸(中埜酒造)が大本営として統監する明治天皇の行在所にもなっています(小栗冨治郎邸にあった「明治天皇半田大本営碑」は雁宿公園に移設)。
日露戦争後の明治40年、小栗家が経営する小栗銀行が金融破綻し、本業の酒造業の継続が危ぶまれた際にも中埜家が手助けし、中埜酢店の5代目・中埜又左衛門は、半田の老舗酒蔵で、「雪山」(せっさん)の蔵元滝本家と提携し、丸中酒造合資会社を設立しています。
戦後、知多の多くの酒蔵が灘・伏見の大手メーカーの下請けに転じた際にも頑なに「國盛」の製造にこだわり、平成2年、滝本家との共同資本を解消、中埜家による完全経営となり、社名も中埜酒造に改められたのです。
國盛・酒の文化館(中埜酒造) | |
名称 | 國盛・酒の文化館(中埜酒造)/くにざかり・さけのぶんかかん(なかのしゅぞう) |
所在地 | 愛知県半田市東本町2-24 |
関連HP | 國盛・酒の文化館(中埜酒造)公式ホームページ |
電車・バスで | JR武豊線半田駅から徒歩10分。名鉄河和線知田半田駅から徒歩15分 |
ドライブで | 南知多道路半田ICから約5km |
駐車場 | 10台/無料 |
問い合わせ | 國盛・酒の文化館 TEL:0569-23-1499/FAX 0569-23-1379 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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