源義朝暗殺湯殿跡(法山寺)

源義朝暗殺湯殿跡(法山寺)

平治元年(1159年)の平治の乱、後白河院政派で平清盛に敗れた源義朝(みなもとのよしとも=源頼朝の父)は、東国に下る途中、尾張国(愛知県)知多半島の法山寺(現・愛知県知多郡美浜町)の湯殿で、入浴中に暗殺されています。その跡が源義朝暗殺湯殿跡で、法山寺境内近くに石積みなどが残されています。

長田忠致・景致父子が湯殿で暗殺

源義朝は、京を逃れ、東国への脱出を図って東海道を下り、まずは随行していた鎌田政清(かまたまさきよ)の舅(しゅうと)・長田忠致(おさだただむね)の許に身を寄せるため尾張国(愛知県)知多半島を目ざします。

長田忠致は野間を本拠とする桓武平氏の末流。
平家からの恩賞を目当てに長田忠致・景致父子は長田屋敷に逗留中の源義朝を、平治2年1月3日(1160年2月11日)、正月三日の初湯と称して法山寺近くの湯殿に招いて、入浴中に暗殺。
義朝の首を六波羅の平清盛(たいらのきよもり)の元に差し出します。

その恩賞として長田忠致は壱岐守に任ぜられますが、尾張国、あるいは美濃国の国守を要求したと『平治物語』には浅ましい武将として記されています。

源頼朝が平氏追討の兵を挙げると、長田忠致は源氏に与しますが、平家追討後に頼朝の命で、父親の敵(かたき)ということで殺害されています。

法山寺は寺伝によれば行基開山という古刹(現在は臨済宗)。
霊泉が湧くことから空海もこの地を訪れたという伝承があり、知多四国八十八箇所霊場55番札所になっています。

源義朝暗殺の湯殿跡に源頼朝が堂宇を建立し、長田の遺領を寄進したとも伝えられています(現在の堂宇とは少し離れた場所に湯殿跡があります)。
法山寺にほど近い乱橋は、義朝暗殺の湯殿を逃れた金王丸らが、長田家の家臣と乱戦を繰り広げた場所。

名称 源義朝暗殺湯殿跡(法山寺)/みなもとよしともあんさつゆどのあと(ほうざんじ)
所在地 愛知県知多郡美浜町野間田上50
電車・バスで 名鉄野間駅から徒歩7分
ドライブで 南知多道路南知多ICから約5km
問い合わせ 美浜町広報情報係 TEL:0569-82-1111
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
長田父子はりつけの松

長田父子はりつけの松

主君・源義朝(源頼朝の父)を屋敷近く、法山寺(現・愛知県美浜町)の湯殿で暗殺し、平清盛に取り入ろうとした長田忠致(おさだただむね)・長田景致(おさだかげむね)親子。頼朝が平家追討に立ち上がると源氏に与するという処世ですが、平家滅亡後に長田屋

 

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