東海道新幹線の車内放送で有名な三河安城駅ですが、実は安城市は「日本のデンマーク」だった!

三河安城駅

2026年は、『日本のデンマーク100年』の年ですが、そもそも日本のデンマークという言葉を知っているのは、年配の愛知県人くらい。「三河安城駅を時刻通り通過しました。次の名古屋までおよそ9分です」という東海道新幹線の車内放送で知られる安城市ですが、実はここが、日本のデンマークだったのです。

三河安城駅の駅舎も、実はデンマーク風

三河安城駅
三河安城駅もデンマーク風

1880年、明治用水の完成で、それまでは耕作に不敵だった安城ヶ原、碧海台地に農業用水が供給されるようになり、安城市の前身である安城町を中心とした碧海郡(へきかいぐん=現在の安城市、碧南市、刈谷市、知立市、高浜市一帯)は、デンマークの多角的な農業経営を取り入れ、不毛な大地を豊かな農地へと変革したのです。

国内で消費する食糧の3倍の農業生産を誇るというデンマークは、協同組合形式という高度に組織化、効率化された農業生産を実現、酪農や養鶏をとり入れることで農業大国として発展しました。

強力な農協を産業構造の基本、農家の高い教育基準、それに支えられる高い生産性と効率、安定、供給力というのがデンマーク農業の基本ですが、碧海郡でも1901年に愛知県立農林学校が開校、1915年には全国有数規模の碧海郡購買販売組合連合会(通称・丸碧)が誕生、米の単作から多角形農業(商品作物導入)を進めるなど、いち早くデンマーク式の農業を取り入れていました。

日本のデンマークという言葉がいつ生まれたのかは定かでありませんが、1926年発行には雑誌『農政研究第5巻第5號 日本の丁抹号』が発行され、すでに「日本の丁抹(デンマーク)」という言葉があったことがわかります。
またこの雑誌の発行後、安城町へは全国から多数の視察者が訪れ、明治用水、碧海郡農会、安城町農会、丸碧農業倉庫、愛知県立農業補習学校、板倉農場(大規模農場)などを見学しています。

「痩せた荒地も耕しゃ肥える。人と家畜のとも稼ぎ。」がスローガンの板倉農場は、広大な農地を保有するため豚を飼うことで自家肥料を確保し、生産性を高めています。

日本デンマークの名が全国的に知られるようになると、視察者は続々と安城駅に下り立つようになったのです。
「三河安城駅を時刻通り通過しました」であっけなく通過してしまう安城市ですが、大正末期から昭和初期にかけて、全国が注目する農業先進地「日本のデンマーク」として君臨していました。
降り立たないとわからないのですが、実は三河安城駅の駅舎も、デンマーク風。
さり気なく、「日本のデンマーク」を今に伝えているのです。

雑誌『農政研究第5巻第5號 日本の丁抹号』が発行された大正15年は、1926年ということで2026年が『日本のデンマーク100年』ということになります。

「安城産業文化公園デンパーク」は、デンマークの町並みを再現した総合公園。
道の駅「デンパーク安城」では地元の新鮮な野菜、果実を販売し、ちょっぴり「日本のデンマーク」を体感することができます。

東海道新幹線の車内放送で有名な三河安城駅ですが、実は安城市は「日本のデンマーク」だった!
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
安城産業文化公園デンパーク

安城産業文化公園デンパーク

明治用水の開通により大規模な開墾が行なわれ、農業の先進的な取り組みが実施されたため、大正末期から昭和初期にかけて「日本デンマーク」(日本のデンマーク)と呼ばれた安城市。そんな背景を持った安城の自然と親しみ、花のある暮らしをと造られたテーマパ

 

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